ひとりの男がソファに座って本を読んでいる。針金のような痩躯の男である。普段は厳しく細められている猛禽類を思わせる瞳も、今はどこか和らいで見えた。
「何の本を読んでいるんだ、ホームズ」私が聞くと、その男、ホームズは本から顔をあげた。
「この本かね? 『シャーロック・ホームズの読書談義』という本だよ。ストリートの古本屋で買ってきたのさ」
私は首をかしげる。「おや、君は文章を書くのはもう懲り懲りだと言っていなかったかな」
「この本は僕が書いたわけじゃないよ。なんでも、コナン・ドイルという人が書いたらしいね。『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズを書いた作家だ」
「……妙だな。『シャーロック・ホームズの冒険』は私が書いているはずなのだが」
「その通り。だから、なんだか興味が湧いたから借りてみたのさ。もしかしたら事件なのかもしれないしね」
「それで? 読んでみて何かわかったのかい?」
「いや、事件かどうかはわからないな」ホームズは肩を竦めた。「だけど、この本は『魔法の扉を通って』というタイトルが原題らしい、ということはわかった。あとは、著者のこともね」
「いったい何者なんだね? その、コナン・ドイルというのは」
「彼が僕たちの物語を描いたのは二十七歳の頃だ。それ以来、彼は僕たちの冒険を五十八歳まで書き続けたらしい。君よりもよほど年季のある作家じゃないか」
ホームズはからかうような流し目で私を見た。私はどこか釈然としない。自分で書いたはずの物語を、誰か別の人が書いたと聞かされるのは、なんだか気に入らなかった。我が子を取られる気持ちとは、こんなものなのかもしれない。
「彼はミステリで有名になったんだろうね。だが、彼が本当に書きたかったのは歴史小説らしいよ。読者から望まれて、僕たちを書くしかなかったようだが」
「ああ、その気持ちはわからなくもないな」私は頷く。「その本には、そんなことが書かれているのかい? その、いわゆる彼の自己紹介とやらが」
「いや、この本は、そのコナン・ドイルとやらの読書談義以外のなにものでもないな。彼についての詳細を書いているのは別の人物のようだ。原題が変わっているところを見るに、訳者でもいるのかもしれないな」
しかし、コナン・ドイルは中々の博識な人物らしいぞ、と、ホームズは楽しげにページをめくる。
「君が素直に褒めるなんて珍しいな」
「この本を見ればわかる。実に幅広く読んでいるようだ。歴史小説を書きたかっただけあって歴史、そして科学、日記や評論まで。詩や小説、医学への造詣も深いらしいな」
「なるほどな。つまり、その知識を駆使して『シャーロック・ホームズ』シリーズを書いているのだ、と、言い張っているわけか」
「ははは、まあ、そう僻むなよ、ワトスン君」僻んでいるわけじゃない、と言い返せば一層からかわれるだけだろう。そう察して、私は押し黙った。代わりに、視線で彼の手にある本を見る。
「……その本、読み終わったら貸してくれ」
「やっぱり気になるかい?」
「そりゃあな」いっそ、そこまで言われたならば、読んでみたくなってくる。いったいどれほどのものか、見定めてやろう。
その時、玄関のベルが鳴った。次いで聞こえるのは足音である。
「おや、残念ながら、読書の時間は終わりのようだ。依頼のようだよ、ワトスン君」彼は本を閉じて、ソファから立ち上がった。
ホームズを生み出したコナン・ドイルの価値観
本書はシャーロック・ホームズの著者、アーサー・コナン・ドイルによる『魔法の扉を通って』の全訳である。内容は一種の読書論というより読書談義で、原題は、現実の世界から読書の魔法のような世界へ通ずる扉をくぐることを示している。
コナン・ドイルは一九五九年エディンバラに生まれた。二十七歳のとき、はじめてシャーロック・ホームズとワトソンの登場する『緋色の研究』を書いた。
ドイルが本当に書きたかったのは推理小説ではなく、歴史物だったという。しかしシャーロック・ホームズの人気には抗しがたく、ドイルは結局長篇四つを含む多数のホームズものを五十八歳まで書き続けた。
一九三〇年、サセックス州の自宅で死去。享年七十一歳。ドイルが『魔法の扉を通って』の題で読書談義を発表したのは一九〇五年、四十五歳のときである。作家としても人間としても円熟期にさしかかっていた。
彼はここで、ある時は若き日を懐かしみ、ある時は大きな影響を受けた亡き大作家たちを偲びながら、さまざまなジャンルの本のことを、自由に楽しく、何者にもとらわれず、思いつくままに語りついでいる。
その読書範囲は広く、小説、詩、評論、歴史、日記、回顧録、科学書の多岐にわたっている。これらの本はほとんどが英文学史上の古典であり、科学部門の重要な業績であり、それぞれの分野の最高の書物である。
本書の最大の楽しみはドイルの物の見方――文学観、道徳観、社会観、戦争観、人間観――が見えてくるところにある。この中にはシャーロック・ホームズのあれこれの場面に対応する箇所がいくつもある。
あえて『シャーロック・ホームズの読書談義』とした所以である。
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