こんなものがあるから。ぼくは自分の手の中にある紙切れを握り締める。描かれた偉人の顔がくしゃくしゃに潰れた。
ぼくは幼い頃、お金についての苦労というものを知らずに育った。というのは、裕福な家の生まれだったからだ。
父はいくつもの事業を展開する大企業の社長で、資産家として知られていた。けれど、ぼくにとっては深い愛情を注いでくれる父親以外の何ものでもなかった。
父の仕事については、ぼんやりと「そういうことをしている」と知っているだけで、ちっともわかってなんていなかったのだろう。
ただ、ぼくはもっと父のことを知っておくべきだったのだと、今になって思う。自分が彼の息子であることを意識しておくべきだった。そうすれば、あんなことにはならなかったかもしれない。
幸せな生活が突如として崩壊したのは、ぼくが中学生の頃だったと思う。
父が突然この世を去ったのは、誰の予想もできない、不幸な事故だったとしか言えなかった。
愛する父を失ったことは哀しかった。しかし、遺されたぼくと母の現実を食い潰していったのは、他ならぬ「人間」そのものだった。
あっという間だった。父は遺書を残していない。父の葬式には大勢の人たちが訪れた。父の喪失を哀しんで、ではない。父の財産を奪うためだった。
彼らは白アリのように、父の財産を食らい尽くしていった。母は生粋のお嬢様で、お金や法律の知識が何もなく、ただ言いなりになって、遺された財産が減っていくのを眺めることしかできなかった。
あっという間に、財産は奪われ、家は親族に乗っ取られた。彼らの、欲望に駆られた「獣」のような形相は今でも忘れられない。
ぼくと母は切り詰めた生活を送らざるを得なくなった。しかし、長く染みついた生活習慣がそうそう変わるわけがない。
ぼくは年齢を偽って学業の合間にアルバイトをし、母は慣れないパートの仕事に就いてどうにか細々と生活を続けようとした。
しかし、激変した環境に耐えられず、人間関係の歪みに疲弊した母は病気にかかり、寝たきりになってしまう。
ぼくは友人に助けを求めたけれど、彼らは手のひらを返したようにぼくを遠ざけるようになり、ぼくは友人を失った。
母は口癖のように、ごめんね、と呟く。申し訳なさそうに。母は何も悪くないのに。
ぼくはバイトでもらった僅かばかりの給料を眺めた。幸せだった頃は意識してみることもなかった、お金。
こんな紙切れが、あれほどまでに人間を狂わせる。優しかった叔母さんやおじさんが獣のように財産に群がり、仲の良かった友人が離れていく。
ただの紙切れだ。ぼくはこんなもののために必死で働いたのか。こんなもののためにぼくの母は病気になったのか。
ぼくたちはお金を使う。けれど、これではまるで、ぼくたち自身がお金に使われているみたいじゃないか。
そんなことを考えていたからだろうか。その本を手に取ったのは。
マーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』。それは、彼の実験を綴った記録である。
彼はお金によるシステムが環境破壊を引き起こしている根本の原因だと考え、ある実験を企てた。
それは、一年間、お金を一切使わずに生活すること。
「そんなことは不可能だ」と誰もが言った。今の世の中はそれほどまでに、「金」が支配する社会に依存し、慣れ切っている。
彼もまた、始める前は不安に溢れていた。愛する恋人とは別れることになり、病気にかかった時には苦しみに悶えていたという。
しかし、結果として、彼はやり遂げたのだ。お金を一切使わない生活を。誰もが不可能と言った、その実験を。
ぼくは彼を尊敬する。自分の信念を証明するために、彼は自分が今まで得てきたものを手放す覚悟をしたのだから。
彼の実験に、批判の声もあったと聞いて愕然とする。「金持ちの道楽」「話題になりたいだけ」と言うが、生きていくのに必要不可欠だと言われているものを捨てるのに、どれだけの勇気がいると思っているのだろうか。
それは道楽では決してできない。強い信念があったからこそ、彼はそれを成し遂げることができたのだ。
けれど、それは同時に、ぼくにはできないということを真っ向から突き付けられることだった。
ぼくはお金を憎んでいる。お金のせいでぼくはいろいろなものを失った。お金が中心となって人間を使うような社会が、ぼくの大切なものを奪ったのだ。
彼は一年間、お金を使わなかったが、お金を憎んでいるわけではない。ただ、社会のために、「お金は不要だ」ということを証明したかったがための実験だったのだ。
彼とぼくでは、お金に対する思いの重さが違う。彼は社会のために。ぼくは自分のために。ぼくはお金を憎んでいるからこそ、お金を捨て去ることはできない。
いつか。いつか、ぼくもできるようになるだろうか。お金を憎まず、素直な気持ちで「いらない」と言えることが。
それはきっと、ぼくが社会への憎しみから解放されるときだろうと思う。
父の財産を奪っていった彼らを本当に心の底から許せたとき、ぼくはようやく、お金の呪縛から解放されるのかもしれない。
実験の始まり
まったくみごとなタイミングでそれは起きた。お金の君臨する世界で過ごすのもこれが最後と言う日の夕方。
おまけに、予想外の長い一日だった。お金を使わずに生活するという計画をメディアにかぎつけられた途端、インタビューにつぐインタビューをこなす羽目に陥ったのだ。
おかげで、実験開始を目前にしながら、準備の仕上げどころか、何度となく繰り返される同じ質問に答え続ける自分の声にも、いい加減吐き気がしていた。
最後のインタビューを終え、自転車で帰途についたぼくは、尻の下にぐらつきを感じた。いや、たいしたことはない。ただのパンクだ。
ぼくはぬけがらに近い状態で後輪とおぼしきものを外しにかかる。しかし、あろうことか、車輪を緩めたつもりが、後変速機を外してしまったのだ。
自転車について多少の知識はあれど、こういう複雑な部品となるとお手上げだ。
お金の世話になっていた時は、故障したら自転車屋に持ち込んで直してもらっていたが、もはやその選択肢は存在しない。
今日一日、各メディアのレポーターを相手に何を話し続けたかと言えば、お金を使わずに一年間過ごすため、この六か月どのような準備をしてきたか、である。
悩みの種は自転車にとどまらない。こんなのは、日々ごまんと起きる問題のほんの一例に過ぎない。
いつどこで問題が起きても、これまではお金で解決しようと思えばできたが、今夜はそうはいかない。
いかに心細い立場にあるか、足を踏み入れんとする世界についていかに経験不足かを、この期におよんで思い知らされた。
油にまみれ、不安とストレスを抱えながら、大の字になって天井を見つめていると、いろいろな想いが脳裏をよぎる。
いったいどうやって今日までこぎつけることができたのか。何の因果で、衆人環境のもと、こんな無茶な実験に乗り出す羽目になったのか。
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