娘を失った夫婦は死神とともにサイコパスと対峙する『死神の浮力』伊坂幸太郎


「ところで、君が彼女から借りてくるよう頼まれたという本は、その『死神の精度』一冊だけ、かな?」男に聞かれて、僕は戸惑いながらも、もう一度メッセージアプリを開いた。

 

「あ、いえ、えっと……まだ、いくつかあります」

 

「そう。じゃあ、せっかくだからそれらも探すの手伝ってあげるよ」

 

「い、いやいや、そんな。もう大丈夫ですよ」

 

「本当に?」彼が覗き込むように見てきて、僕は思わず言葉を飲み込んだ。大丈夫かと言われれば、大丈夫じゃない。

 

僕は普段、図書館になんて来ない。初めて入って、その膨大な本棚に思わず圧倒されたのだ。この中から目的の本を探すなんて、広大な海から宝物を見つけるくらい困難なことに思えた。

 

それを、彼はすぐに見つけ出したのだ。彼が手伝ってくれれば、探し物もスムーズに終わるに違いない。でも、なんというか、彼に頼みたくはなかった、彼は、そう、アヤシイのだ。

 

「どうする?」「すみません、お願いします」背に腹は代えられない。僕は大人しく頭を下げて、彼の助力を頼んだ。「よしきた」と彼は胸を叩く。

 

「で、俺の予想だけれど、次のタイトルは『死神の浮力』じゃないかい?」

 

「え、なんで」知っているんですか、と聞くと、彼はさっき見つけた本である『死神の精度』を指差した。

 

「続編なんだよ、その本の」

 

「へえ、そうなんですか」ということは、『死神の浮力』もまた、死神が出てくるのだろうか。千葉という名の、晴れた空を見たことがないという死神が。

 

「その通り。でも、ちょっと雰囲気は変わるけどね。『死神の精度』は短編集で、『死神の浮力』は長編だから」

 

「長いんですか」

 

「そう。主人公は夫婦。彼らは子どもを亡くした。故意にその命を奪われたのさ、ひとりの男に。でも、その男は無罪になった。しかも、男はマスコミを味方につけて、逆に夫婦を悪く見えるように仕向けた」

 

「……ひどいですね」

 

「ひどいよね。男はサイコパスだ。感情の揺らぎを見せない。社会の理屈じゃなく、自分自身の理屈で動く。子どもを手にかけようが、どれだけひどいことをしようが、罪の意識を感じない」

 

だから、夫婦は彼に復讐をしようと誓った。

 

「復讐、ですか」

 

「そう」

 

「え、待ってくださいよ。死神はどこに出てくるんですか」

 

「千葉は夫婦の、夫の方を担当することになるんだ」

 

「え、じゃあ」夫は一週間で死んでしまうではないか。

 

「そうかもね」

 

「え、復讐は、失敗するんですか?」

 

「さあ、どうだろう」

 

読んでみれば、わかるんじゃないかい? 彼にそう言われて、僕は言葉に詰まる。確かにそうだ。本を読むのは苦手だ。でも。

 

先が知りたい。そんなことを思うのは初めてだった。自分の考え方の変化に戸惑っていたから、僕は彼の小さな呟きを聞き逃してしまった。

 

「まあ、君にはそんな時間もないんだけど」

 

 

死神とサイコパスの対峙

 

押したのが伝わる。インターフォンの音は消してあったが、誰かが門扉脇のボタンを押したのはわかった。被害妄想による錯覚なのかもしれない。

 

今のドア近くに設置された室内モニターには、外でインターフォン前に立つ誰か、おそらくは記者だろうが、その何がしの姿が映っているに違いない。

 

先ほど二階から外を見た時には、我が家の前の通りに、カメラを担いだ男が数人と記者たちが集まっていた。

 

二十三歳でデビューし、専業で小説執筆を生業として、十数年になる。様々な出版関係者と付き合ってきたが、自分が追われるようになると、事件を追う記者やカメラマンたちに圧倒された。

 

悪気はない。彼らはこういった仕事が初めてではない。悲しんでいる公人から、強引に、話を聞きだすことについては少なからず経験を積んでいる。

 

一方、僕や妻の美樹は初心者だった。娘を亡くす、という怖ろしい痛みを味わったのは初めてのことであったから、防御一辺倒で、とにかく、態勢を整えるのに必死だった。

 

この一年、僕と妻は家の中で、悪意の集中豪雨を受け、びしょびしょだった。屋根があろうと、この雨は降ってくる。

 

アメリカでは二十五人にひとり、良心を気にしない脳みそをもっている。サイコパスと呼ばれている人たちだ。

 

喋っているうちに僕たちの間には、ある一人の人間のことが浮かんだ。良心を持たず、他人を苦しめ平然としている、あの男だ。僕たちの娘の人生を終わらせた、若い男だ。

 

テレビの主電源を入れ、リモコンを操作した。夕方のニュース番組に行き当たる。僕たちの事件が報道されていた。「無罪判決」のテロップは毒々しい。

 

カーテンの隙間から窓の外を眺める。乾いた路面が少しずつ色を変える。美樹はそのまま外を見ていた。「変な人いるね」と声だけで答えた。

 

ママチャリに乗っている三十代半ばほどの背広を着た男で、しかも背筋がまっすぐに伸びているところに違和感を覚えた。

 

黒い背広に、細身のネクタイを締め、背は高く、痩せ型だった。僕の記憶にはない。マスコミのには見えなかった。

 

そこで、ばちばちと激しい音が頭上で鳴った。雨脚が突如として激しくなり、屋根を勢いよく叩き始めた。外にいる記者たちは散り散りになった。

 

室内にインターフォンの音が鳴った。はっと見れば、美樹もこちらに顔を向けている。激しい雨の音がする中、男の声だけが落ち着き払っていた。

 

「大事な情報を持ってきたんだが、中に入れてくれないか」

 

「どちら様でしょうか」美樹が探るように言うと、男の返事が聞こえた。

 

「千葉と言うんだが」

 

 

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