土佐に生まれたひとりの風雲児『竜馬がゆく』司馬遼太郎


高知県の桂浜というところに一体の大きな銅像が突っ立っている。かつて幕末の世を駆け抜けた坂本龍馬その人の像である。右手を懐に入れ、眼下を睥睨するその姿は、威風堂々としていた。

 

実は、坂本龍馬と桂浜とは、何の縁のゆかりもないらしい。しかし、私は、その場所のことを知った時、彼に相応しい場所だと感じたのである。

 

坂本龍馬の視線の先に広がるのは、桂浜の大海原だ。彼は若い頃から海に憧れ、「海援隊」という組織を立ち上げて、国のために水上を奔走したという。海を眺めるその姿は、どこか満足げにも思える。

 

司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』を読んだのは、そもそも父に勧められたからであった。当時の私は歴史小説に苦手意識があったが、心中を抑えてならば読んでみようと言ったら、父が全巻を大人買いしてくれたのである。

 

それほどまでに勧めてくるとは珍しい、と首を傾げながら読んでみると、なるほどこれは面白い。歴史小説への苦手意識などあっという間に吹き飛んでしまった。というより、歴史小説といった感じがしなかったのである。

 

坂本龍馬という土佐の泣き虫が、やがて夢を叶える過程を描いた成功物語にも読めるし、国の一大事に立ち向かう戦いの話のようにも読める。

 

私が読んでいる時は、さながら恋愛小説のようだと思っていた。坂本龍馬を取り巻く美しい女性たちとの関係が、なんとも魅力的だったのである。

 

全八巻もある大長編であるにもかかわらず、夢中で読み進めてしまった。読み終わった時には、心地よい読後感と寂寥感で、しばし呆然としたほどであった。

 

坂本龍馬が弱虫の小僧だった頃から、北辰一刀流の達人となり、海援隊を立ち上げて薩摩と長州を結ぶために奔走し、とうとう大政奉還を果たしたのちに、襲撃によって暗殺されるまでの生涯が、多様な人間関係を交えながらこの物語の中に描かれている。

 

その波乱万丈な人生はまさに驚くべきだろう。立ちはだかる壁を、常識に囚われない発想と、優れた剣術の腕、そして人たらしの才を以て乗り越えていく様は、まさに圧巻だった。

 

しかし、そんな彼の物語を読んだ後だと、桂浜に立っている銅像や、歴史の教科書でよく見る坂本龍馬の絵を見ると、どこか違和感を感じる。

 

目を細め、口をへの字に曲げた険しい表情は、どういうことであろうか。『竜馬がゆく』から受ける印象には、偉丈夫であってもあのような威厳は感じられないのである。

 

ああ、いや、きっと照れているのかもしれない。物語に描かれる彼の性格ならば、自分が銅像になったり、教科書に載ったりするならば、真面目くさった顔をするのだろう。

 

その結果があの表情なのだと想像すれば、思わずくすっと笑ってしまうほどおかしい。想像ですらそう思わせてしまうのは、私が彼の人柄に惹かれている証左なのかもしれない。

 

つくづく残念なのは、現在に残っている坂本龍馬の姿は、険しい表情をしているものばかりで、笑っている顔がひとつもないというところだ。彼の笑顔にこそ人たらしとしての所以があった。

 

ああ、もしも私が幕末に生まれていたならば、ひと目でいい、会ってみたかった。思わずそう感じてしまう。『竜馬がゆく』をはじめ、今もなお、数々のドラマや作品で、坂本龍馬は多くの人に愛されている。

 

今の日本の姿を見て、桂浜に立つ彼は果たして、どう思うのか。日本に到来してきた黒船よりもさらに恐ろしい未来を、彼の静かな瞳は見据えているのかもしれない。

 

 

坂本龍馬という男

 

「小嬢さまよ」と、源爺ちゃんが、この日の朝、坂本家の三女の乙女の部屋の前にはいつくばり、芝居もどきの神妙さで申し上げたものであった。

 

「なんです」と、乙女がうつむいて答えた。手元が針仕事で忙しい。明日という日は、この屋敷の末っ子の竜馬が、江戸へ剣術修行に旅立つ。

 

竜馬が、いよいよ明日発つときいて、城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、朝からひっきりなしに、祝い客が続いている。祝い客たちは、必ず末娘の乙女の部屋にもやってくる。言う言葉も、決まっている。

 

「小嬢さまは坊さんがお発ちになったあとは、さぞさびしゅうござりましょう」

 

「なに、左様なことはありませぬ。洟たれが手元におりませぬと、さばさばいたしまする」

 

無論、この娘らしい空威張りなのである。乙女は、竜馬の十二歳のとき母の幸子が亡くなってから、弟をおぶったり、添い寝をしたりして今日まで育ててきた。竜馬に対しては、若い母のような気持でいたし、あるいはそれ以上だったかもしれない。

 

竜馬は、十二になっても寝小便をするくせがなおらず、近所の子どもたちからからかわれても気が弱くて言い返しもできず、すぐ泣いた。

 

ときどき近所の子どもたちに交じって遊ぶことはあったが、大抵は泣かされて帰ってくる。十二の時、父は学塾に入れたが、ほとんど毎日泣いて帰るし、文字を教えられても、竜馬の頭では容易に覚えられない様子なのである。

 

「えらい子ができたものじゃ。この子は、ついに坂本家の廃れ者になるか」

 

「いいえ、竜馬は左様な廃れ者にはなりませぬ。ひょっとすると、土佐はおろか、日本に名を残す者になるかもしれませぬ」

 

「寝小便をしてもかよ」

 

「はい」

 

 

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