「あなたは、今まで生きてきた中で嫌な思い出とかは、ございませんでしょうか。いっそ、忘れ去りたいほどの」
ある日、突然我が家の玄関のチャイムを鳴らした彼はどうやら訪問セールスマンのようだった。その予想は違っておらず、西川と名乗った。
彼から渡された名刺には、聞き覚えのない会社の名前が書かれている。彼の言うところ、立ち上がったばかりの会社らしく新たなビジネスを掲げているらしい。
そのビジネスの説明が、冒頭のような彼の言葉である。
「それは、もちろん。忘れたい嫌な思い出くらい、いくつかはありますけれど」
人は誰だって生きていれば忘れたい思い出なんてひとつやふたつできるものだ。みんなの前で恥をかいたり、恋人と別れたり。
けれど、そういう思い出こそ、楽しかった思い出よりも頭の奥底にこびりついて離れないものなのだ。
私がそう答えると、彼は嬉しそうに揉み手をしながら頷いた。スーツをきっちりと着こなした細身の男だが、その笑顔は、なんというか、胡散臭い。
「ええ、ええ、そうでしょうとも。そこで、我が社のサービスが生きてくるわけです。いやはや、お客様はなんとも運がいい」
彼はビジネスバックから一枚の資料を取り出す。その一番目立つところには、鮮やかな蛍光色のフォントで『思い出買取サービス』と書かれていた。
「当社は思い出を商品として取り扱うという今までになかった新しい形のビジネスを提唱しているのです」
このサービスはその一環でございます。彼は朗々と語る。その笑みは相変わらず胡散臭い。しかし、言葉はとても魅力的に聞こえる。
「忘れたいほどのお客様の思い出。それを当社が買い取らせていただきます。もちろん、その思い出に比肩するだけの報酬がお客様の手に渡されることになります」
つまり、不要な思い出を忘れることができ、かつお金を稼ぐこともできる、という実に画期的なサービスなのですよ。
「でも、そんな、思い出を売るなんて、可能なんですか。何か危険な技術とか。詳細は教えていただくことはできますか」
「申し訳ありませんが、方法は当社独自のものであるため企業秘密でございます。ただ、肉体的精神的に外傷が生じた場合は当社が全面的に責任を負わせていただきます」
その旨もこちらの契約書に書かれておりますので、ご確認を。彼は契約書を取り出して該当箇所を示す。
私はううんと考えた。いかにも胡散臭い話だ。しかし、自分の嫌な思い出を忘れることができて、しかもお金がもらえるとなっては、いい話のように思えた。
偶然にも、私はお金に困っていた。しかし、手に入れる目途も立たず、頭を抱えているところだったのだ。
何度も契約書や資料を確認しては迷った挙句、私はどうするか決めた。彼と握手を交わす。
その時の彼の笑みは、耳まで裂けるほど大きくて、まるで悪魔のようにも見えた。
黒を受け入れて
読んでいた『猫物語 白』を読み終えて、私は立ち上がる。特に何をするわけでもないけれど、ふと思い立って外へ出た。
今はもう、働かずとも生きていけるだけのお金を手に入れていた。西川との契約の結果だった。
私はいくつかの思い出を売り渡した。その対価として受け取った報酬はとてつもなく高額だ。経済的な困窮なんて一瞬で吹き飛ぶほどの。
人は嫌いなことから目を背けたがる。自分の恥に蓋をしようとして、嫌いなものを自分から遠ざけようとする。それは、人のどうしようもない本能だろう。
しかし、それでは駄目なのだ。だって、嫌いなことをして、堪えられないほどの恥をかいて、昔の自分を悔やみながら生きてきて。
それこそが、人間じゃあないか。人間は、汚くて、ひねくれていて、うじうじして、恥をかいている。それこそが、人間なのだ。
嫌なことを切り離してばかりいたら、人間じゃあなくなる。人間なんて汚いくらいがちょうどいい。清廉潔白だなんて、人間である限りいないのだ。
嫌な思い出も、楽しい思いでも、それらが積み重なって、初めて現在のその人の形ができている。いらない思い出なんてあるわけないのだ。
だったら、もうとっくにいくつもの思い出を売り渡した私は、自分を売り渡したのと同じことで、もうすでに私ではないのかもしれない。
友人からは、変わったねと言われる。決して嬉しそうではない、複雑そうな表情で。
けれど、私にはもう、私がかつてどんな人間だったかすらもわからないのだ。それこそが、お金とともに売り払ってしまった、私の何より大切な対価だった。
気づいたところで、時はもう、遅いのだけれど。
完全無欠の委員長は通学路で一頭の虎と出会う
羽川翼という私の物語を、しかし私は語ることができない。私にとって私とは、どこまでが私なのかをまずもって定義できないからだ。
私は私なのか? 私とは何なのか? 私とは誰なのか? 誰とは――私で。何が――私なのか。
そもそも羽川翼という名前がすでに不安定だ。私は幾度か苗字が変わっている。だから名前にアイデンティティを求められないのである。
怪異と向き合うに当たっては名前を把握することが何より大事なのだが、ならば私が私と向き合ってこられなかった理由は、自分の名前を自分のものとして認識していなかったからかもしれない。
ならば私はまず自分の名前を知るべきだ。羽川翼を自分として知るべきだ。それでこそ、初めて私は私を定義できるだろう。
もっとも、阿良々木くんはこんなことで悩んだり立ち止まったりしないんだろうなと思うと、私は自分がしているのであろう足踏みの滑稽さがおかしくなってしまう。
自覚するまでもなく。自信を持って、阿良々木暦は阿良々木暦で。彼はいつも、彼自身の物語を語ることができるのだ。
だから私は彼が好きなのだ。羽川翼は阿良々木暦が好きなのだ。私の物語は、それで十分。
シャーロック・ホームズの60種の冒険譚の中にたった二編だけ、助手のワトソン博士ではなく。シャーロック・ホームズその人が語り部となる短編が存在する。
私はシャーロック・ホームズの超人さ加減に魅せられて読んでいたものだから、突然語られた彼の本音に、面食らってしまったものだ。有体に言えばがっかりした。
散々超人っぷりを披露してきた彼が、どうして今さらそんな人間っぽいことを言い出すのかと、裏切られたような気分になったのだ。
だけど今ならわかる。『超人』としての自分と、本人としての自分、そのギャップに耐えられなくなった彼の人間らしさが。言い訳をしたくなった彼の気持ちが。
私にとってこの物語は、そういう物語であるということを最初に述べておこう。
阿良々木くんが大袈裟に語る私が、ただのひとりの人間であることを知ってもらうための物語だ。
私が猫であり、虎であることを。そして人であることを知ってもらうための、軒並みがっかりしてもらうための、裏切りの物語。
さあ。悪夢から目覚める時がやってきた。
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