「俺は将来、偉大な小説家になるべき男なのだ」
私の友人に変人と噂されていた者がいた。彼は自分が偉大な小説家になると主張していた。
しかし、彼の文章はお世辞にもおもしろいとは言えない。小難しい言い回しと無駄に多い装飾文はあまりにも回りくどかった。
人は彼に対して添削をとアドバイスをしたが、彼は頑として聞き入れることはなかった。自分の文章に絶大な自信を持っていたからだ。
それだけならまだしも、彼は傲慢であった。自分が偉大な人物だと信じ、他のあらゆる人を見下していた。
そんな彼は当然のように遠巻きに見られていた。彼と付き合いを保っていたのは私ぐらいのものだろう。
私に彼と離れるよう助言を言ってきたものも少なくはない。善意から言ってくれているのはわかる。しかし、私は彼のそばを離れることはなかった。
それはひとえに、私が彼を尊敬していたからである。彼が偉大だ小説家になるだろうことを一片の疑いも持っていなかった。
その理由は、彼の夢に向ける熱量が比ではなかったからだ。その周りを歯牙にもかけない一途な姿は何よりも輝いて見えた。
彼の文章はたしかに面白くはない。しかし、私はそこにある難解さこそが彼を体現しているように思えた。
彼と離れるよう言ってくる友人に、私はいつもセルバンテス先生の『ドン・キホーテ』を読ませていた。
私が彼と一緒にいる理由を伝えるには、この方法が一番わかりやすいだろうと考えたのだ。
「なるほど、君も性格が悪いな。だが、たしかにこれくらいの楽しさがなければ彼と一緒にはいられないだろう」
かくして、『ドン・キホーテ』を読み終わった友人たちは私に、にやにや笑いながらそう言うのだ。
ようするに、彼らは私がドン・キホーテのように虚実の境を行き来している彼の滑稽さを密やかに楽しんでいると考えたのだ。
ちなみに、彼に『ドン・キホーテ』を見せると、彼はいたく感動して私に手放しの称賛を投げた。偏屈な彼から得た初めての称賛であった。
ドン・キホーテという男の偉大さを
『ドン・キホーテ』は多くの人が滑稽本として考えている。それは主人公であるドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの行動の滑稽さがあるからだ。
騎士を模している奇妙な恰好をし、やたらと大仰ぶった錯誤した言動を見せ、痩せた駄馬の背に乗った弱々しい老人。
その姿は多くの人の笑いを誘った。今でも地方のお祭りでは定番の仮装であるらしい。
一方で、『ドン・キホーテ』を悲劇と捉える見方もある。老人の視点から考えれば、これは決して笑えるお話ではなかろう、と。
それもまた、ひとつの見方であろう。悲劇にも喜劇にも、また騎士道に対する痛烈な風刺にもなるのがこの物語である。
しかし、私はむしろ、このドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャにこそ憧れを覚えるのだ。
見たまえ。彼ほど純真無垢で正義感の強い人物は世の中広と言えどもそうはいないだろう。
彼は世の中の不正を正すために旅に出た。それはいくら人に笑われようとも変わることのない彼の正義であった。
世に不正が多いことは理解しているだろう。しかし、それを正すために旅に出ることができるのは何人ばかりだろうか。
彼が憧れたのは騎士の正義である。その正義を全うしようとした彼を、どうして笑うことができようか。
多くの人は私がドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを称えるふりをして蔑んでいた宿屋の亭主だと思っていた。
偉大なる小説家を自称する変人を心の底では笑っているのだろう、と。
しかし、実のところの私はサンチョ・パンサである。彼の妄想を愚直に信じ、心から彼に尊敬を抱いているのだ。
この私の考えを理解してくれたのはやはり彼だけであった。私がドン・キホーテを馬鹿にしているのではなく憧れていることに気づいたのは彼だけだったのだ。
いくら笑われようとも自分の信念を信じて夢を目指す彼の姿は、騎士道物語に描かれたあらゆる騎士よりも勇猛である。
むしろ、私たちはドン・キホーテになるべきなのだ。滑稽だと笑われながらも自分の道を貫き通す、偉大な騎士に。
現実と空想の境を見失った老人の冒険
ラ・マンチャに住む理性的で思慮深い郷士アロンソ・キハーノは騎士道小説が大好きであった。
昼夜本を読むことに執心し、畑を売り払ってまで本を買うほどのめり込んだ。
やがて、とうとう彼は現実と物語の境を失った。騎士道物語に執心するあまり、自らが騎士だと思い込むようになったのである。
彼は曽祖父の遺した黴だらけの鎧を倉庫から引っ張り出して、表面を磨いた。
しかし、鉄兜には面頬がなかった。そこで彼は厚紙と木の棒で工作することで茶を濁した。
さらに、彼は馬小屋へ赴き、所有していた痩せ馬を眺めた。駄馬であったが、彼の目には偉大な駿馬であるかのように見えた。
ようやく磨き終わった鎧を身にまとい、厚紙で工作した鉄兜を被って、痩せた駄馬の背に乗り込んだ。
彼は馬にロシナンテと名付け、自らはドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗ることにした。
騎士には姫が必要であろう。そこで、彼はかねてより想いを寄せていた遠からぬ村に住む見目麗しい田舎娘のアルドンサ・ロレンソをドゥルシネーア・デル・トボーソと呼ぶことにした。
そうして、用意を整えると、珍妙な恰好をした彼は世の中の不正を正す旅に出たのである。
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