聖人君子の皮を被った怪物『聖なる怪物たち』河原れん


記者たちのマイクを向けられて、額に汗をかきながら、詰問に答えている男。その表情は、少し前まで毅然とした態度を示していた人物と同じだとは、とても思えなかった。

 

私が医師として従事するようになったちょうど今の時に、感染症が猛威を振るう世の中となったことは、ある種の運命のようにすら思う。

 

次々と病院に運び込まれてくる感染者たち。医師も、看護師も、寝る間を惜しんで働いた。未だかつてないほどの激務に、身も心も削れていく。

 

長年、病院が課題として抱えてきた人材不足が、この緊急時になって浮き彫りになったのだ。いつ終わりが来るのかわからない波を、ただ身を粉にして処理していくしかなかった。

 

それでも、感染症が流行し始めた最初の頃よりはよほどましだった。必死に患者を救おうと働いているにもかかわらず、まるで私たち自身が感染者のように扱われるのは、胸が張り裂けそうなほどつらかった。

 

今もまだ、その差別は経験することがある。だが、あの頃と比べると随分と減った。それとも、差別とともに応援の声も減っていったことを嘆くべきなのだろうか。

 

医師会のトップがニュースに出ていたのは、そんな時だった。なんでも、感染症を広げないために会食の自粛を呼び掛けていたにもかかわらず、自らは政治家の主宰するパーティーに参加したらしい。

 

そのニュースを見ながら、私の頭に浮かんできたのは、『聖なる怪物たち』という言葉だった。ドラマだったか、小説だったかで、見たことのある作品だ。

 

とある小さな病院に、ひとりの患者が運び込まれた。緊急だった。その女性は妊娠していた。そして、陣痛が始まっていたのだ。いわゆる飛び込み出産である。

 

外科医の司馬は、胎児を取り上げたことなど研修の時に経験したくらいしかない。だが、他に病院も見つからず、正義感の強い彼は、その患者を引き受ける他なかった。

 

胎児は逆子だった。司馬は母子の命を救うために、帝王切開の決断をする。母体の身体にメスを入れ、赤子を取り出すことに成功した。

 

しかし、悲劇はその後に起こった。輸血をしても血が止まらず、母となったばかりの患者は、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。

 

遺された赤子をめぐり、彼は人間の汚さを、ありありと目の当たりにすることとなる。そしてまた、彼自身も、自分の「悪徳」と向き合わされることとなったのだった。

 

その物語は決して楽しくはなかった。それも、医師である自分にとってはなおさら。まるで心の奥を覗かれたかのような不快感と恐怖。私のそこにも、罪悪は眠っている。医師にとって、この物語は完全なフィクションとは限らないのだと、私は痛感した。

 

だが、一方で、その物語に描かれている「医師」の姿に、どこか諦めにも似た解放感を感じたことをよく覚えている。それはまるで、罪を暴かれた時のように。

 

医師は、仕事の中でもことさらに特異なものだ。私たちはその手に命を預かる。世間からは尊敬され、金に困ることはなくなる。

 

患者は私たちのすることをすべて正しいと信じている。だからこそ、ミスが許されない。患者の命を救うために、私たちには満足に休日すら与えられず、仕事に尽力しなければならない。

 

だが、彼らの命を救う私たちもまた、人間なのだ。人間はミスをする。政治家と会食にも行くだろうし、手術ミスもする。自分の決断に自信が持てないことも、何度もあるのだ。

 

記者たちに弁解をしている医師会のトップは、すでに「聖人」の仮面を剥ぎ取られていた。私たちにとって雲の上でもあるその人物の仮面の下には、ただのくたびれた老人の顔がある。

 

ここぞとばかりに彼を批判している世間が、恐ろしく思う。彼らは自分たちに正義があるのだと信じている。自分たちを棚に上げ、あるいは自分たちを正当化するために、彼を叩く。それが許されるのだと疑ってもいない。

 

私は、彼が間違った行動をしたとは思っているが、だからといってそこまで好き勝手に批判する世間がわからなかった。むしろ、その世間こそ恐ろしいと思う。

 

今まさに弁解をしている彼と同じ、彼を批判する世間もまた、「聖なる怪物たち」だ。正義を気取ったその顔の下には、醜悪で私欲に塗れた恐ろしい怪物の顔がある。

 

そして、私もまた、彼らと何ら変わらない怪物なのだろう。正義感が強いにもかかわらず保身に走った司馬と同じ。私たちは人間である限り、誰しも素顔は醜い怪物なのだ。

 

 

聖人君子なんていない

 

私は、だまされていたんです。だまされていただけなんです、あの人に。まさか――そうとは思いもよりませんでした。人を見る目はあるほうだと思っていましたから。

 

ずいぶん苦労をしてきた分だけ目は肥えていますし。それに――そもそも人を見るのが、私の仕事ですから。それなのに欺かれるなんて、私の目は節穴だったのでしょうか。

 

悔しいですね。信じていたのに、心の底から。あの人だけは。人なんて、哀しいものですね。優しい顔して、恐ろしいことをする。

 

だから聖人なんてものは、信じていなかったんですよ。そんな人いるはずありません。「聖職者」なんて言葉、今時皮肉でしか使いませんよ。

 

表向きは社会に尽くす人が犯罪を犯すなんてこと、子どもだって知ってます。人は偉くなるほど欲深く、傲慢になるものですからね。

 

聖人君子を気取った人間ほど、胡散臭いものはありません。そういう人に限って、仮面を剥がせば、怪物の顔をしているのです。

 

けれど、なにより恐ろしいのは、本人でさえもそれが仮面だと気付かないこと。長年かけて磨きがかかった仮面は、ぴたりとその顔に貼り付いています。

 

だから、なおさら本物の顔を見極めるのは難しいのです。この人だけは、と信じてしまうのです。

 

私は、すっかりだまされていたのですね。だましていたつもりだったのに。けれど、ようやくそれで気が付いたんですよ。私も、聖人の仮面をかぶっていたのだと。

 

 

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