現実なんて嫌だ。ゲームの世界に入れたらいいのに。そんなことを考えていたから、こんなことになってしまったのだろうか。
手のひらに触れる雑草の感触。頬に当たる風は、決してデータだけの存在とは思えなかった。
狭い自分の部屋でゲームを楽しんでいたはずのぼくは、気がつけば、だだっ広い草原にいた。
ここは、どこだろう。ぼくが知っている中で、こんなにも広い草原というのはテレビの中以外で見たことがなかった。
立ち上がろうとして布を踏みつけてしまう。何だと思って見下ろしてみると、どうやらそれはぼくが身にまとっているものらしい。
たしかに、ぼくはいつものスウェットを着ていたはずなのだけれど。誰かがぼくの服を脱がして着せたということだろうか。しかし、何のために。
立ち上がって、自分の姿を見下ろしてみる。動きやすいが、肌触りのよくないごわごわした服に、カラスのような黒いローブを羽織っていた。
足元にころがっているのは、古ぼけた木の棒だ。拾い上げると、どうやらそれはただの木の棒ではなく、杖だということがわかった。
現代の杖ではない。ファンタジー作品で、賢者の老人が持っているような、木を荒く削っただけのような無骨な杖だ。
ぼくはそれを知っていた。見覚えがあった。しかし、実際に見たのは初めてだった。
そんなことはありえない。ぼくの中で生まれた疑惑は、しかし、あまりにも荒唐無稽すぎて、到底信じられるものではなかった。
ともあれ、とりあえずどこか人と会おう。今は昼だが、夜になれば野宿する羽目になりかねない。得体の知れない土地でそんな危険は冒したくはなかった。
幸いにも、少し歩いた先でぼくは小さな村を発見することができた。思わず息を吐く。しかし、同時に違和感を覚える。
遠目に見える小さな家は木と家でできているようだった。大きな建物どころか、見慣れたコンクリートすらない。まるで時代を数百年遡ったかのようだった。
不安は尽きないが、行ってみるか。そう決めたぼくは村へと足を進めて、しかし、背後の奇妙な音に思わず振り返って、ぞっとした。
そこにいたのは見上げるほど巨大なアリの怪物だった。顎がキチキチと硬質な金属音を立て、声にならぬ声を上げた。それは獲物を見つけた歓喜の声だった。
ぼくは確信した。ここはぼくの知る現実の世界じゃない。ぼくがいつもプレイしていたゲームの世界だ。
ゲームが現実になる
昔、読んだ小説。さて、あれはどういうタイトルだったか。『ろーぷれわーるど』とか言ったはずだ。顔文字が入っているのが印象的だった。
ゲームの中に入る、というのは、その当時、流行していた作品のジャンルだった。『ろーぷれわーるど』もそのひとつだ。
ゲームの世界で大活躍して多くの女性に好かれる、というもので、私はそういったのは好みではなかったのだが、不思議とその作品は印象に強く残っていた。
それはおそらく、その作品には他の作品にはない、独特のものがあったからだろう。
作中に、実際に存在するゲームの豆知識が登場するのだ。しかも、相当にマニアックな。
私はもともとゲーム好きで、自分が好きなゲームのそうした豆知識を知るのが楽しかった。だから、憶えているのだと思う。
ゲームの世界に来てすぐの頃は、もちろん戸惑いはしたものの、それ以上に心が躍るようだった。
学校だとか親との関係だとかにうんざりしていた私は、ゲームの中に行けたらいいのにと願い、そしてその通りになった。
現実では冴えない男子生徒だった私も、ゲームの中では強い力を持つ魔法使いだ。
チート能力で、女性にもモテて、敵を圧倒する。こうであればいいのにという妄想がすべて現実になったような高揚に、私は溺れていた。
しかし、そんな私の鼻を叩き折ったのは、他ならぬ今は現実と化してしまったゲームの世界だった。
強大な力を持つ私には、みんなを救う責任が求められていた。私の日常は魔物との戦いに明け暮れるものへと変わっていた。
ゲームであれば、それも仕方がないことだと言えただろう。しかし、ここはリセットボタンなんて存在しない。HPが尽きてしまえばその瞬間、私の命も終わるのだ。
平和な日本では決して感じることのなかった恐怖。それは、思い上がった私には途方もないものだった。
自分の強大な力と、それに伴った責任の重さに、私は潰されかけた。そして、とうとう、私は何もかもから逃げ出したのだ。
世界を救う主人公。憧れていたそんな存在に、私はなることができなかった。チートを手に入れても、私は私のままだった。ゲームですらも、脇役だった。
元の世界の夢を見始めたのも、その頃だったと思う。あれほど嫌っていた元の世界に、私は帰りたかった。
しかし、何十年も経ち、老人にもなると、むしろあちらの世界こそが私の憧れた夢なのではないかとすら思えてきた。
戦いもない、魔物もいない、なんて素晴らしい世界なのだろう。けれど、それはすでに遠い夢でしかない。
親しかった友人も、口うるさかった親も、何もかもが愛おしい。だが、もう手に入れることはかなわなかった。
霞んでいく瞳の奥に、私はかつて疎み、そして憧れるようになった世界を見た。乾いた頬に一筋の涙が伝う。
眠りにつけば、会いに行けるだろうか。愛おしかった彼らに。高名な魔法使いは、そうして覚めない眠りについた。
憧れのゲームの世界に
おれ――厳島勇吾はその時、幻覚なんて見ていなかった。何かが起こった。瞬きひとつする間さえない、あっという間の出来事だった。
おれは緑濃い景色のただ中にいた。陽射しは刺さるように強烈で夏の太陽を思わせた。ありえないことだった。おれは自宅の二階にある六畳の自室にいたはずだった。
たしかそう、学校から帰って、制服を脱がないままテレビに向かって、RPG『ギャスパルクの復活』をプレイし始めた。そこまでははっきりと覚えている。
それがなんで! なんで突然、まったく別の場所にいるんだよ! 全身に嫌な汗がじんわりと噴き出しつつあった。でもおれは、金縛りにあったように動くことができなかった。
そこは広い草原だった。空にはコンドルやワシよりも明らかに大きくて、しかも極彩色をしている鳥が一羽飛んでいた。
「ユーゴ……か?」
聞き覚えのある声が思考を断ち切った。振り返ると、おれの親友にして級友の宮本翔が立っていた。
「なあ、なんなんだよここ! 僕は家に帰って『ギャスパルクの復活』をしてたはずなんだ! それがなんでこんなところにいるんだ?」
おれはショウから視線を反らし、周囲の景色を改めて観察した。その風景は見覚えがあるような気がしていた。
ユーゴの頭の中に浮かんでいる考えを、ショウも考えているようだった。
「ここって、『ギャスパルクの復活』の中じゃないのか? ここってさ、スタート地点のアルダ村の近くの草原じゃないか?」
おれはショウの指摘を否定する言葉を探した。その言葉は見つからなかった。
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