大正百年の世界に飛ばされてしまった少女『小説 千本桜』一斗まる


 私は満開の桜の木を見上げて立ち尽くしていた。白い花びらが雪のように私を囲んで舞い散っている。

 

 

 特にこれという理由はない。ただ、帰り路でふと、桜の樹を見かけて、ふらっと立ち寄ってみただけのことである。

 

 

 耳につけたイヤフォンからどこか和を思わせる曲が鳴り響いてる。黒うさPの『千本桜』。どこかそれが舞い散る桜の光景に合わさっていく。

 

 

 その光景はこの世のものとは思えないほど美しかった。まるで別世界に迷い込んだかのような。

 

 

 咲き乱れた桜の道は、とても現実のものとは思えなかった。私は一歩、前へと歩を進めた。

 

 

 足元の絨毯は私の足音を柔らかく受け止めてくれる。雲の上を歩くというのは、きっとこんな感じなのだろう。

 

 

 桜の樹の下には、なんて言ったのは、たしか、梶井基次郎、だったか。この得体の知れない不気味な美しさに何かしらの理由をつけたかったのは、わかる気がする。

 

 

 人は美しいものを称賛するけれど、ある一線を超えると、称賛が畏怖に変わる。美しいものは怖ろしい。怖ろしいものは美しい。

 

 

 だからこそ、梶井基次郎は理由をつけた。理由をつけることで、その天上の美しさを、地に足つくようなものに捕らえようとしたのだ。

 

 

 気がつけば、空すらも見ることはできなかった。晴れていたはずの空には、桜の雨が舞っている。

 

 

 私の視界は薄い桃色で埋め尽くされていた。桜以外のものを視界の中に認めることができなかった。

 

 

 すでに、前に歩いているのかすらもわからなかった。イヤフォンから聞こえる曲はとっくに終わってしまっていたけれど、私の頭の中ではどうしてだか、未だに曲が鳴っていた。

 

 

 視界がどこか、靄がかったかのようにぼんやりしていた。今、どこにいるのか、自分が誰なのかすらもが桜の奥に包まれていく。

 

 

 やがて、私の正面にひとりの長身の男が立っていた。今まで見たこともないような、美しい美丈夫である。

 

 

 伊達に着こなした桜色の着物がぞっとするほど似合っていた。彼は冷たい瞳で私を見下ろす。

 

 

「桜の咎とは、なんだ」

 

 

 彼は問いただすような低い声色で、私に問いかけた。私は、何も答えることができなかった。

 

 

美しさは罪か

 

 美しさゆえに人を惹きつけるところが桜の罪なところだ。あれは、たしか西行が言った言葉だったろうか。

 

 

 『西行桜』は美しさの真髄を説いている能楽の作品のひとつだ。ただ咲いているだけの桜には罪なんてなく、美しいと思うのは人間の心である、と。

 

 

 桜が美しいわけじゃない。桜は美しくなろうとしたわけじゃない。人間が勝手に桜を美しいものだと決めただけだ。

 

 

 桜の樹の下には何も埋まっていない。そこにおぞましいものを埋めたのも、人間が勝手にしたことである。

 

 

 美しさに罪はない。美しくなろうと望むのは人間だけだ。この世にあるものは、そんなことをしなくても、あるがままに美しい。

 

 

 美しさは人の心の罪である。罪として騒ぐその心こそが罪であることを、誰もが気づいていないのだ。

 

 

「桜の咎とは、なんだ」

 

 

 彼の問いに、私は答えた。

 

 

「人間の目の前で、咲いたことだ」

 

 

美しい桜に心を奪われると、神隠しに遭う

 

 日ノ本の国に今年もこの季節が巡り来た。満開の桜が咲き誇り、街中が薄紅色に染まる季節――雲ひとつない絶好の花見日和。

 

 

 毎年、春が訪れるたびにこの桜並木の下で花見をしながら食べたり歌ったりすることが、未來たちの一番の楽しみだった。

 

 

 来年も再来年も、ずっとこうして同じようにみんなと日々を重ねていくに違いない。

 

 

 ふと、上から二番目の姉、流歌がいないことに気がつく。彼女が写真を撮りに行くと言い出して出かけたまま、もうかなりの時間が経っている。

 

 

 未來は顔面が蒼白になった。流歌が信じられないほどの方向音痴だからだ。しかも、携帯どころか、カメラすらもバッグごと置きっぱなしになっている。

 

 

 仕方なく未來は流歌を探しに出た。

 

 

 いけどもいけども桜、桜、桜。未來は、この桜の迷宮をもう四、五〇分は走り回っている。この一帯を『千本桜』と呼称する所以だ。

 

 

 木々の合間から漏れる光と桜の花びらが幾重にも降り注ぎ、未來の行く手を阻むように世界を桜色に塗りかえていく。

 

 

 忘れていた遠い記憶がよみがえった気がして、その光の先に手を伸ばした刹那。どこからともなく響き渡る美しい旋律と声音に、未來は弾かれたように立ち止まる。

 

 

 そして、気づいた。降りしきる桜吹雪の中、眼前にそびえる視界を覆うほどの巨大な桜の樹に。

 

 

 未來は鳴子から聞いた言葉を思い出す。ここら一帯で囁かれる噂を。

 

 

「美しい桜に心を奪われていると、どこからか神様が謳う歌が聞こえてきて、『神隠し』に遭うんだってさ」

 

 

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