昔、のそのそと蠢く毛虫を棒でつついて遊んでいたことがある。周りには誰もいなかった。棒が毛虫の首を千切りとったとき、私はその顔をまじまじと見つめた。断末魔すらあげなかったその虫の瞳は、どこまでも無表情。まるで自分の死にすら興味がないかのように。
虫のように生きたい。そう思い始めたのはいつからだったか。井上荒野先生の『虫娘』を読んでからのことかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「樅木照はもう死んでいた」という一文から始まるその作品は、どこか歪で、丁寧に埋めた土の下に何かが埋まっているかのような、ある種の気持ちの悪さを孕んでいた。だからこそ、私はこれほどまで惹かれたのかもしれない。
シェアハウスに住んでいた五人の男女。照はそのうちのひとりだった。ある朝、積もった雪の上で裸で寝ていたその時までは。
命を落とした照は、自由自在で誰からも気付かれない、いわゆる「幽霊」のような存在となった。彼女は、シェアハウスでともに暮らした彼らや不動産屋の生活を傍観することにする。
照が命を落としたあの夜、いったい何があったのか。彼女の死は事故として処理された。それは真実なのだろうか。照のいなくなったシェアハウスは一見すれば何も変わらない生活をしているようでいて、けれど、ボタンを掛け違ったかのような歪みがある。
その歪みは次第に大きくなっていく。歯車の軋み。彼らが迎えることになる破綻を、照はただ眺めることしかできない。
生前の照は、「虫のような女」と称されていた。変わり者で、性に奔放、自由で、何を考えているかわからない。そんな女だったらしい。
けれど、最後まで読んだ私は、彼女のことをどこまでも「人間らしい」と感じた。彼らが歪んだあの夜の照は、きっと、彼らの中の誰よりも「人間」だった。
誰よりも自由でありながら自由に固執していた照は、命を落とした後、本当の意味で自由になった。肉体という檻から解放され、人生という枷からも解き放たれる。
けれど、それでも彼女はまだ、「人間」だった。「人間」という最後の牢獄からは抜け出せなかった。生前、ともにいた彼らへの執着。生への渇望。考えることを、彼女はとうとうやめることができない。
私は照を哀れに思う。死んでもなお人間のままだなんて、なんと恐ろしいことか。想像するだけでも身震いする。私は「虫のよう」だった頃の照が好きだけど、彼女のようにはなりたくなかった。
私は虫になりたい。彼らは自由で、感情がなく、何に対しても興味がなかった。彼らはただあるがままに生きて、そして朽ちていく。そんな彼らの虚無をこそ、私は欲しい。
あの毛虫を思い出す。子ども特有の残酷さで散々弄んで殺した毛虫を。棒の先に突き刺さった毛虫の顔。千切れた首からぺちゃんこの身体につながった粘性の糸が風に溶けて消える。彼の目を、私は今でも覚えていた。
憎悪もなく、苦痛もない。ただ澄んだ瞳が私を見ていた。その瞬間、私の心を襲ったのは、途方もない罪悪感と、恐怖だった。私は棒を放り捨て、毛虫の残骸をそのままに、逃げるように家に帰った。
生きることは苦痛だ。考えることは苦痛だ。何も感じず、何にも興味を持たず、ただそこにいることができたなら、いったいどれだけ幸せなことだろう。人間は、そんな簡単なことすらも許されなくなってしまった。
私は虫になりたい。あの毛虫のように、何もしていないのに嫌われて、憎まれて、弄ばれた挙句に意味もなく命を奪われる、そのことに何も感じない、あの澄んだ瞳を持つ、小さく美しい存在に。
けれど、こうして迷い、悩み、憧れるのも、私が人間だからなのだろうと思うと、いっそう虚しくなる。照のように、私もきっと、憧れたまま、人間以外の何者にもなれないのだろうね。
彼女はどうして命を落とした?
樅木照はもう死んでいた。この前、そのことに気が付いた。この前というのがさっきなのか三か月前なのか、昨日なのか一年前なのかはよくわからなかったが。
さて、どうしようか。照は考えた。死んでるのにまだそれを考えなければならないなんて不自由なことだと思った。
とはいえ、身体の方は生きているときより間違いなくだんぜん自由で、いろんなことができた。たとえば飛んだり、溶けたり、粉々になったり。しばらくそうしたことを試したあとに、曳田揚一郎のところへ行くことにした。
曳田揚一郎は不動産屋だ。照がBハウスの十人になったのも、彼と知り合ったからだった。ちょうどそのとき、揚一郎は照のことを考えていた。死ぬとそういう波長が伝わるものらしい。
揚一郎は電話を受けていた。照が死んだあとずっと空いていた部屋の入居者の募集がはじまって間もなく、さっそく問い合わせがあったのだった。
「特記事項あり、って書いてありましたね。お訊ねくださいって」
「ええ」
揚一郎はそれまでになく明瞭な返事をした。
「自然死じゃないんです」
「え?」
「空き部屋の以前の入居者さん、自死されたんです」
「ジシ?」
「ええ、自死。自殺ということですね。まあ、事故だったという見方もあるんだけど」
「なるほど」
「殺人事件とかならちょっと考えちまうけど。そういうんじゃないんですよね?」
「そういうんじゃありません」
自殺か事故か、という点については青年はあらためてたしかめはしなかった。
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