彼は偉大な人物であった。しかし、同時に彼ほど救いようのない人間はいないだろう。彼の心には悪霊がとり憑いていた。かつて、ドストエフスキーの作品世界で猛威を振るっていた悪霊が。
彼との付き合いを深めていくごとに、私が思い出していたのは、ドストエフスキーの『悪霊』に登場する人物、ニコライ・スタヴローギンである。
ニコライは多くの問題を起こす悪漢としての側面を持ちながらも、明晰な頭脳と美貌を持つ魅力的な人物として描かれている男であった。そして同時に、あまりにも深い虚無主義にとり憑かれている。
『悪霊』は彼をはじめとするニヒリストや革命家、社会主義、無神論者が入り交じり、破滅へと向かっていく作品である。私は数年前にその作品に触れていた。
その当時は、なにせ難解な作品だと思った記憶がある。作品世界に入り込むことができず、断念した作品のひとつであった。
物語の序章となる、ワルワーラ夫人がステパン氏の結婚を企てた場面はよく覚えているが、正直なところ、内容はほとんどうろ覚えのようなものである。
だが一方で、主軸となる人物のひとりであるニコライのことは印象に残っていた。
ドストエフスキーは『悪霊』を通じて、革命を痛烈に批判した。社会主義やニヒリズム、無神論といった思想を文字通りの「悪霊」としたのである。
宗教のあり方について『カラマーゾフの兄弟』に至るまで生涯追い求め続けた彼にとって、当時、無神論やニヒリズムは「悪しきもの」として映ったのだろう。
私はそうとまでは思わないものの、彼との付き合いを深めていくうちに、彼の胸中を深いニヒリズムが占めていることに気が付いた。
ニヒリズムといえばニーチェが有名だが、そもそもとして、彼がニヒリズムの思想を形成したのには、ドストエフスキーの『悪霊』が大いに影響を与えたことはよく知られた話である。
私の目から見て、彼は魅力的な男であった。見目麗しく、聡明で、紳士的だった。性別、年齢問わず、多くの人に慕われていた。
だからこそ、時折発作のように起こる、彼の残酷とも呼べるような振舞いは、他者から見ればいっそう理解しがたく、恐ろしかったのかもしれない。
それはやはり、彼自身にとり憑いた「悪霊」、つまりは虚無主義が起こさせた破滅的な行動だったのだろう。それは彼の理性とはまったく異なるところにあった。
他者から見れば魅力的な存在として映った彼自身を、何よりも彼自身が認めなかった。彼自身にとっては、そんなものは何の意味も持ってはいなかったのだ。
そもそもニヒリズムは、人間の存在、目的に価値はないとする思想のことである。ニーチェは、何の価値がないことを前向きに考え、その瞬間を懸命に生きていく「積極的ニヒリズム」を勧めた。
一方で、彼やニコライの抱えていた「悪霊」は、その対極、「消極的ニヒリズム」だったのだろう。人間には何の価値もないと絶望し、人生に対峙する意義を失ってしまったのだ。
ニーチェは『悪霊』の登場人物ひとりひとりに「目標が欠けている」と感じていた。あらゆる価値が剥奪されている、と。それこそが、ニーチェのニヒリズムへの昇華のきっかけとなった。
私が感じた彼も、まさしく同じだった。彼が何を見て生きているのか、わからなかった。いや、あるいは、何も見ていなかったのだろう。そのことを知った時には、もう何もかもが遅かったが。
彼はとうとう、ニコライと同じ結末を辿ることになった。生涯、彼の中の「悪霊」は彼に巣食い続けていたのだろう。
そのことに私がもっと早く気付いていれば、その結末を変えられただろうか。いや、今さら何を言っても、もう遅い。彼は私の愛すべき友として、物語のひとつとなってしまったのだから。
物語は破滅へと向かう
今日までなんの特記すべきこともなかったわが町において、最近、相次いで起こったまことに奇怪なる事件の叙述に手を染めるにあたり、私はステパン・ヴェルホーヴェンスキー氏の一代記にかかわるディテールからして、稿を起こすことを余儀なくされている。
ステパン・トロフィーモヴィチは常々私たちの間で一種特別な、いうならば市民的とでもいった役柄を担ってきた人物で、しかも自身、この役どころがすこぶるお気に召していた。
晩年の彼はもう誰からもすっかり忘れ去られた存在となっていた。しかし、だからといって、往年の彼がなんら世に知られることのない人物だったとは、とうてい言えるはずもない。
私は何も、彼が被害者であったことを頭から否定しようというのではない。ただ、今になってはっきりと得心がいったのは、必要な釈明さえしておけば、彼が望むだけいくらでも続けられたはずだということである。
ところが、当時の彼は妙な山気を起こして、ひどくまた性急に、《旋風のような諸事情》のために生涯取り返しのつかぬ打撃を受けたと、一途に決め込んでしまった。
いや、いっそ洗いざらいぶちまけてしまうなら、彼の人生コースを狂わせた真の原因は、陸軍中将夫人で大変な資産家であったワルワーラ・ペトローヴナ・スタヴローギナからのしごく丁重な申し出だったのである。
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