風に吹かれてはためいている軒先の虹色の旗。その鮮やかな七色が眩しく見えて、アタシは思わず目を逸らした。
軒先に虹色の旗を掲げる意味をアタシが知ったのは、小川糸先生の『にじいろガーデン』という作品を読んだことがきっかけだった。
レインボーフラッグは、LGBT、すなわち同性愛者やバイセクシャル、トランスジェンダーなどの、いわゆる性的マイノリティーの人たちの象徴、と。
『にじいろガーデン』もまた、同性愛者たちを描いた作品だった。初めて読んだ時は何も知らなかったから、随分と驚いたような記憶がある。
夫と別居し、たったひとりで息子を育てている三十五歳の女性、泉は、ある時、自ら命を絶とうとしていた女子高生、千代子と出会う。
泉は彼女を思いとどまらせるために食事に誘い、自宅に招き入れる。息子の草介はサマーキャンプで不在であり、二人きりで過ごしているうちに、互いに意気投合した。
帰ってきた草介とも仲良くなり、泉の家に通うようになった千代子は、ある時、自身がレズビアンであることを告白する。そして、泉に、駆け落ちしようと持ち掛けた。
同じように彼女に惹かれていた泉は、夫との関係も清算し、仕事も辞めて、千代子と草介を連れて、三人で新たな生活を始めることを決意する。
最初から怒涛の展開で、息をつく暇もない。事件がようやくひと段落ついたと思えば、また新たな問題が浮かび上がってくる。
女二人と息子、そして新たに出てくる娘の、風変わりな四人家族。最初は小学生だった草介が社会人となるほどの長い時間を、アタシは物語の外から見守っていた。思いもよらなかった結末には、思わず呆然としたのを覚えている。
同性愛をテーマにしている作品なのに、主題は恋愛ではなくて家族、というのは物珍しかった。だからこそ戯画的ではなく、ほっとするような温かみがある。
読んでいると、だんだんと彼女たちが同性愛者だということなんて、気にならなくなってくる。忘れるわけじゃなくて、意識はしているのだけれど、「だから何?」みたいな。
きっと、それこそ著者が伝えたかったことなのだろう。社会にたくさんいる異性愛者の人たちから見れば異常であっても、彼ら、あるいは彼女たち自身はあくまでも「普通の恋人」でありたいのだ。
人間が人を愛することは、不思議じゃない。それが異性であるか、同性であるか。そんなことなんて、ちっぽけなことじゃないか。そう思えてくる。
抱き合って、キスをして、喧嘩して、仲直りして。泉と千代子は女性同士で、年齢も離れているけれど、普通の恋人や夫婦と何も変わらない。
誰かから文句を言われるような、悪いことなんて何もしていない。それなのに、どうして世の中はまるでそれを悪いことであるかのように言うの?
昔と比べると、だいぶましにはなったと思う。でも、まだまだ先は長い。手を繋いで闊歩した泉と千代子のパレードへの反応こそが、社会に強く根ざしている差別の正体なのだろう。
それでも堂々としている二人の姿には、勇気をもらえた。そうだ、人を好きになることは、悪いことじゃない。
アタシも、伝えられるだろうか。彼女に。アタシの想いを。
気持ち悪がられるかもしれない。今の関係が、決定的に壊れてしまうかもしれない。言わなければよかったと、後悔することになるかもしれない。
それでも、伝えたかった。思わず拳を握る。その中に、彼女への想いを込めるかのように、ぎゅっと胸に抱きしめる。
アタシのこの「好き」を、後ろめたいものだなんて思いたくない。だから、伝えよう。見上げると、七色の旗が、アタシをそっと、励ましてくれた。
二人のおひなさま
三本目の電車が目の前を通り過ぎるのを、ただただ空しく見送っていた時だ。指先が、ふいに何かに包まれた。
何の未練もないはずなのに……。わたしは、この先へと続く小さな一歩を、踏み出せずにいた。未練なんてちっともない。いや、ないはずだった。
視線を動かすと、すぐ横に小さな男の子が立っている。その子がわたしの手を握っているのだ。自分から手を振り払う気には、なれなかった。だって、温かかったのだ。
手のひらの温もりを感じるたび。凍り付いていた心が溶かされた。誰かと手を繋いだ記憶が、わたしにはなかった。こらえきれずに瞬きをすると、涙がぽとりと落下した。
その時、男の子の手が、わたしの手のひらからすーっと離れた。どこからか、母親らしき女性の声がする。男の子が、駆け足で去っていく。
ふと、空っぽになった手のひらを見つめた。さっきまでそこにあったものを、確かめたかった。けれど、手のひら以外には何もない。
計画を断念せざるを得なくなったのは、わたしより一足先に、思いを遂げた人がいたからだ。隣の駅で起きた人身事故を知らせるアナウンスが流れ、運転は見合わせとなった。
わたしはしばらくホームのベンチに腰掛け、電車の運転が再開されるのを待った。わたしはそっと、胸の上に手のひらを重ねた。男の子の指の温もりが、まだかすかに残っている。
価格:814円 |
関連
春一郎さんの左手の薬指には指輪がある。これ以上はいけない、ということはわかっていた。それでも栞は彼と会ってしまう。彼の声を、喜んでしまう。
不倫が嫌いな貴方様におすすめの作品でございます。
価格:726円 |
同棲していた男性に家財も何もかも持ち去られ、何もかもを失った私は声すらも失くしてしまった。実家に帰った私は、家を借りて食堂を開くことを決意する。
何もかも失った貴方様におすすめの作品でございます。
食堂かたつむり (ポプラ文庫 日本文学 102) [ 小川 糸 ] 価格:616円 |