辞書作りにかける情熱の一冊『舟を編む』三浦しをん


昔から辞書が嫌いだった。文字が小さくて読みづらいし、重たくて運びにくい。辞書が必要だと言われたら、思わずげんなりする。

 

三浦しをん先生の『舟を編む』が話題になった時も、あまり興味を惹かれなかったのもそのためだ。友人から勧められなければ、触れることすらなかっただろう。

 

勧められたし、断るのも失礼だよね。最初はそんな想いで読み始めたに過ぎない。適当にぱらぱらめくって、当たり障りない感想だけ告げようと思っていた。

 

しかし、ページをめくっていくうちに、いつしか、物語の世界にすっかり入り込んでいる自分自身に気が付いた。

 

『舟を編む』は言葉は大海のようなもので、辞書はその海を渡るための舟。その舟を作るということである。

 

辞書作りに生涯を捧げてきた外部顧問の松本と荒木。しかし、志半ばにして、荒木は定年となり、会社を辞することになる。彼は自分の後任を探し始めた。

 

そんな彼が出会ったのは、営業部でお荷物扱いされている馬締という男である。彼はどこかトンチンカンだったが、言語感覚においては優れた才能を持っていたのだ。

 

荒木は彼を辞書編集部に引き抜いた。彼が入ったことにより、個性的な辞書編集部の面々は大きな影響を受け始めるのだった。

 

読んでいて、私は圧倒された。彼らの情熱に。その執念に。たったひとつの言葉でも、とことんまで追求していく。

 

その熱意に動かされ、多くの人間が熱に浮かされたように動く。その光景は、どこか厳かな迫力を持っていた。

 

私は知らなかった。あの分厚い辞書の裏側に、多くの人々の熱意と努力があったということなんて。

 

あの一冊の辞書が出来上がるまでには、十年以上の時間がかかっている。そして、余韻に浸る暇はない。次は改訂版を出すための編纂作業が待っている。

 

彼らの冒険に終わりはない。彼らは自分の命を懸けて、その広大な言葉の海へと漕ぎ出しているのだ。

 

私は久しぶりに、本棚の奥から、学生の頃に買ってもらった辞書を取り出した。装丁はボロボロで、埃に塗れている。

 

ゆっくりとページをめくった。そこにびっしりと書かれている無数の文字に、もう嫌悪を抱くことはなかった。

 

それどころか、そのひとつひとつが、多くの人の時間と情熱から生まれたものだと思えば、海原に散らばる美しい真珠のような輝きを放っているようにも見えるのだ。

 

 

言葉の海へ

 

荒木公平の人生は、辞書に捧げられてきたと言っても過言ではない。

 

荒木は幼い頃から言葉に興味があった。辞書の存在を意識したのは遅かった。中学校の入学祝いに、叔父から『岩波国語辞典』をもらったのが最初だ。

 

はじめて自分だけの辞書を手に入れた荒木は、この書物に夢中になった。実際にめくってみた辞書のおもしろさといったら、どうだろう。

 

なによりも、荒木の心を捉えたのは、見出し語の意味を説明する語釈の部分だ。辞書は必ずしも万能ではないと知り、荒木は落胆するどころか、ますます愛着を深めた。

 

一見しただけでは無機質な言葉の羅列だが、この膨大な数の語釈や作例はすべて、誰かが考えに考え抜いて書いたものなのだ。なんという根気。なんという言葉への執念。

 

国語学か言語学の学者になって、俺も自分の手で辞書を編みたい。荒木は猛然と受験勉強に取り組み、大学に入った。

 

四年の間に自分には学者になれるほどのセンスはないと察しがついたが、辞書を作りたいと願う気持ちは抑えがたかった。

 

学者として、辞書の表紙に名を載せることは俺にはできない。編集者として、辞書づくりに携わる道はまだ残されている。

 

俺はどうしたって、辞書を作りたい。俺の持てる情熱と時間のすべてを注ぎ込んでも悔いのないもの。それが辞書だ。荒木は猛然と就職活動を繰り広げ、大手総合出版社の玄武書房に入社した。

 

「それから、辞書づくりひとすじ三十七年ですわ」

 

「ほう、もうそんなになりますかねえ」

 

「なりますよ。先生とお会いしてからだって、三十年以上だ」

 

ざるそばが運ばれてきた。昼時の店内は会社員で満席だ。荒木と松本先生は、しばし黙ってそばをすすった。

 

「最後までお手伝いすることができず、本当に申し訳ないです」

 

荒木はテーブルに両手をつき、深々と頭を下げた。松本先生は、気落ちしたのか、珍しく背中を少し丸めた。

 

「やはり、定年になるのをのばせそうにありませんか」

 

「できるだけ編集部に顔を出すつもりではいますが……」

 

荒木は顔を上げ、松本先生を励まそうと身を乗り出した。

 

「定年までになんとしても、わたしの後継となる社員を探します」

 

「荒木君と辞書を作れて、本当に良かった。君がどんなに頑張って探してくれても、君のような編集者とは、きっともう二度と出会えないでしょう」

 

新しい辞書企画の立ち上げ半ばにして、会社を去らねばならないのは無念だ。同時に荒木は、新たなる使命が胸に宿ったのも感じていた。

 

最後の大仕事を成し遂げるべく、荒木は意欲に満ちて会社に戻った。

 

 

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