大文豪を苛む晩年の幻『歯車』芥川龍之介


ページをめくる。何度も読み繰り返したページはすでに色褪せて擦り切れている。それでも読み続ける。最後まで読み切ると、私は本を閉じ、また開いて、もう一度最初から読み始めた。

 

芥川龍之介先生を私は敬愛している。学生の頃に初めて『羅生門』を読んで以来、その文章に魅せられ、『河童』『芋粥』『戯作三昧』など次々と手を出していった。

 

中でも私がもっとも気に入っているのは『歯車』である。芥川先生の遺作にして、晩年の傑作として名高い作品である。

 

晩年の芥川先生の作品は先生自身をモデルとしているのであろうものが多く、この作品もまたそのひとつだとされているらしい。

 

「僕」はとあるレエン・コオトを着た男の幽霊の噂を聞く。不吉な予感に苛まれる中、「僕」はレエン・コオトを何度も視界に捉えた。最初は何も思わなかった彼もだんだん不気味に思えてくる。

 

義兄が車に轢かれて亡くなったと聞いたのはその時であった。彼はレエン・コオトを着ていたという。視界の隅に半透明の歯車が見える。

 

彼が見ているのは、きっと幻なのだろう。けれどそれは、見ている本人にはあまりにも生々しく迫ってくる。作品全体に横溢している不安が私は好きだった。

 

それは芥川先生自身が見ていた世界だと言われている。先生は精神障害を患っていた。私たちにとってはただの小説という別の世界のものでしかないそれは、彼にとっての現実だった。

 

芥川先生は服毒によって自ら命を絶ったという。その理由は「ただぼんやりとした不安」である。今の世ならば、「そんな理由で命を粗末にするな」とでも言われてしまいそうだ。

 

けれど、私は思うのだ。「ただぼんやりとした不安」ほど恐ろしいものはないのではないか、と。

 

いじめ。借金。失業。挫折。現代に自ら命を絶つ理由は、哀しいかな、多様である。けれど、そこには明白な理由がある。理由があるということは、解決のしようもあるということだ。

 

だが、「ぼんやりとした不安」はそうじゃない。それは「生」についてまわってくるものである。生きている限り、それは真綿で首を絞めてくるかのように、延々と続くのだ。

 

むしろ、どうして誰もが「死」に明確な理由を求めようとするのだろう。いじめられていたのではないか。仕事に失敗したのではないか。家庭で問題を抱えているのではないか。

 

電車が通り過ぎていくときに、ふと、飛び込んでみたくなる。そんなことはないのだろうか。屋上から下を見た時、ふと、足を一歩前に出してみたくならないのだろうか。

 

色濃い「死」というものの気配。彼が見ていたというレエン・コオトの亡霊や歯車は、それが形を持ったものなのかもしれない。

 

この『歯車』には、彼の抱えていた「ただぼんやりとした不安」がありありと描かれている。それはともすれば、読んでいる私自身すらも呑み込んでしまいそうだ。

 

生きることは苦痛である。まだ見ぬ死がどんなものかは知らないが、生きることが苦しいことだけは知っている。だからこそ、私は「死」が待ち遠しい。『歯車』に心惹かれるのは、私のそういった憧憬があるのかもしれない。

 

ふと、顔を上げる。視界の隅に半透明の歯車が回っているのが見えた。ああ。私は思わず声を漏らす。私はまた本に視線を落として、もう一度『歯車』を最初から読み始めた。

 

 

ただぼんやりとした不安

 

僕は或知り人の結婚披露式につらなるために鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。

 

自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せていた。彼は棗のようにまるまると肥った、短い顎鬚の持ち主だった。僕は時間を気にしながら、時々彼と話しをした。

 

「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るっていうんですが」

 

「昼間でもね」

 

「尤も天気の善い日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だっていうんですが」

 

「雨のふる日に濡れに来るんじゃないか?」

 

「御冗談で。……しかしレエン・コオトを着た幽霊だっていうんです」

 

自動車はラッパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになった。僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはいって行った。すると果して上り列車は二、三分前に出たばかりだった。

 

待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやり外を眺めていた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。が、ちょっと苦笑したぎり、とにかく次の列車を待つために停車場前のカッフェへはいることにした。

 

次の上り列車に乗ったのはもう日暮に近い頃だった。いつか電燈をともした汽車はやっと或郊外の停車場へ着いた。僕は風の寒いプラットホームへ下り、一度橋を渡った上、省線電車の来るのを待つことにした。すると偶然顔を合せたのは或会社にいるT君だった。

 

僕らの乗った省線電車は幸いにも汽車ほどこんでいなかった。するとレエン・コオトを着た男が一人僕らの向うへ来て腰をおろした。

 

レエン・コオトを着た男は僕のT君と別れる時にはいつかそこにいなくなっていた。僕は省線電車の或停車場からやはり鞄をぶら下げたまま、或ホテルへ歩いて行った。

 

僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを? ――というのは絶えず回っている半透明の歯車だった。

 

 

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