読んだら気が狂う三大奇書のひとつ『ドグラ・マグラ』夢野久作


 「見よ。聞け。驚け。呆れよ」

 

 

 探偵小説というものはエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』から端を発して現代まで脈々と語り継がれる系譜である。

 

 

 そこからエミール・ガボリオ、ウィルキー・コリンズ、アンナ・キャサリン・グリーン、ガストン・ルルーと続く。

 

 

 さらには、キャロライン・ウェルズの『フレミング・ストーン』、ジョン・ラッセル・コリエルの『探偵ニック・カーター』といった、いわゆる名探偵が誕生する。

 

 

 アーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』やアガサ・クリスティの『エルキュール・ポアロ』なんてのには、大人も子供も知っているだろう。

 

 

 しかし、我々の想像力は人の足跡を追うことしか能がない。

 

 

 世に探偵小説は横溢すれど、どれもこれも似たようなものばかりである。諸君には似たような見た目のカボチャの違いがわかるかね?

 

 

 しかるに、壇上に上がって能書きを垂れる偉い学者様も、こうして講釈を垂れる吾輩自身も、蓋を開ければ諸君と何ら変わりない一介の阿呆に過ぎない。

 

 

 創作の歴史は我々の人類史からすでに始まっており、何世紀にも及ぶ創作物は星の数とも知れぬ。

 

 

 やれパクリだのやれ盗作だの喉を潰して叫びはすれど、その言葉とてすでに誰かが叫んだ言葉を繰り返しているに過ぎないのだ。

 

 

 創作の獣道はすでに誰かが踏み荒らした後である。我々が憎むべきは先人ではなく生まれるの遅きことであろう。我々は産声を上げるのがあまりにも遅すぎたのだ。

 

 

 すでにある創作物と寸分違わず、一言一句異なるものを創るには、新たな言語でも生み出さぬ限りは無理であろう。

 

 

 そう嘯いたのは、ハテサテ誰であったか。どれも同じに見えるカボチャの中にも、ひときわ異形の奇形児なんてのも誕生するのは世の理であろう。

 

 

 吾輩の知っている探偵小説の中で『ドグラ・マグラ』ほど奇妙キテレツなものはない。

 

 

 そして、後年にも彼ほどの尋常ならざる怪奇な作品はないだろう。あまりにも探偵小説然としていないその作品は大いに世を賑わせて、今も賑わいのへその緒は切れていないのである。

 

 

 奇書と呼ばれるにも頷けよう。あまりにも理路整然とした探偵小説でありながら、あまりにも尋常の探偵小説から乖離しているのだから。

 

 

 読んだら脳髄が戸惑い面食らう奇怪喜劇。それはこんな中身である。

 

 

胎児よ胎児よ何故踊る

 

 見よ……聞け……驚け……呆れよ……。

 

 

 この珍奇極まる傑作を見たことがあろうか。終わりのない脳髄迷路をさまよい続けるがよい。

 

 

 『ドグラ・マグラ』は一番最初の第一行がカタカナの行列から始まり、最終の一行もまた、同じカタカナの行列で終わっている一続きの小説である。

 

 

 一貫した学術論文だろうか。それとも、偉大なる頭脳を持った二人の精神学者を翻弄するための無意味な漫文だろうか。

 

 

 否々、これは今までに累計のない形式の探偵小説である。科学趣味や探偵趣味、ノンセンス味、神秘趣味といったものが重なっているが、その実態はひどく整然としている。

 

 

 表題は長崎地方の方言からつけられた。幻魔術や『戸惑い、面食らう』といった言葉をまとめてひっくるめたのが『ドグラ・マグラ』というわけだ。

 

 

 一見すれば関係のない胎児の大悪夢やら阿呆陀羅経の文句やらがいろいろと絡まり合って、最後にはひとつの時計の音に収束していく。

 

 

 諸君、わかるかね? この複雑怪奇であるようでいて単純明快、支離滅裂にも見えて理路整然とした物語はただ迷宮を永遠に巡っているに過ぎない。

 

 

 時計の音が鳴った時から再び鳴るまでの、ほんの一夜の夢でしかないのだ。

 

 

 そして、この吾輩もまた、地獄を形作る夢のひとつに過ぎない。論より証拠。読んでみれば一切がわかろうというものだ。

 

 

 サア、では今宵はここらで幕引きとしよう。次の時計が鳴る頃にまた会おうではないか、アハハハハ……。

 

 

読んだら一度は精神に異常をきたす幻魔怪奇探偵小説

 

 私が薄々と目をさました時、ボンボン時計の鳴る音が耳の中にハッキリと引き残していた。

 

 

 青黒いコンクリートの壁で囲まれた二間四方ばかりの部屋である。冷たい石の床の上に、私は寝ているようであった。

 

 

 私は自分の身体を見回してみた。右手を上げて、こわごわ自分の顔を撫でまわしてみる。

 

 

 俺はこんな人間を知らない。

 

 

 私が覚えているのはボンボン時計の音だけだった。過去の思い出はそれっきりである。

 

 

 私は声を上げた。金属性を帯びた甲高い声だった。気が遠くなってくる。目の前が真っ暗になってきた。

 

 

 コンクリートの向こう側から奇妙な声が聞こえてくる。若い女の声と思われた。しかし、音調は嗄れて痛々しい響きを含有している。

 

 

 彼女は私のことをお兄様と呼んだ。自分はお兄様の許嫁であり、結婚式の前の晩にお兄様の手にかかったが、生き返ったのだと。

 

 

 あまりにも奇怪な言葉だった。だんだんと物悲しく響いてくる声に、私は返事することもできなかった。

 

 

 やがて、夜が明ける。部屋の小さな切戸が開いて食事を乗せた膳が運ばれてきた。私はその女の腕を掴んで自分の名を聞いた。

 

 

 しかし、返ってきた答えは悲鳴と泣き声だけだった。彼女は私の手を振り払い、走っていく足音だけを響かせた。

 

 

 私が食事を終えてウトウトしていると、何者かが部屋に入ってきた。私は反射的に跳ね起きる。

 

 

 扉の前に据え置かれた小型の藤椅子。その前に立っているのは、身長六尺は超えるであろう異様な大男であった。

 

 

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