異色の大ヒットビジネス書『もしドラ』岩崎夏海


 私は校庭を眺めていた。校庭では、ユニフォーム姿の青少年たちが、白球を追いかけて汗水を垂らしている。

 

 

 眼福眼福、と思わないでもない。野球に全力で打ち込む男子の姿はかっこいい。しかし、私がそれを目的に校庭を眺めている変態だと思い込むのは早計である。

 

 

 私はこの野球部に所属する女子マネージャーなのだ。ドラマとかでよく、野球部のベンチにひとりはいる美少女がいるだろう。あれが私である。ほらそこ、首を傾げない。

 

 

 私の役目は黄色い応援の声をかけたり、握ったおにぎりを赤面しながら差し出して、女子に飢えた青少年たちのやる気を引き出すこと、というわけではない。

 

 

 ドラマやマンガではそんなシーンがあるかもしれないが、実際の女子マネージャーは果てしなく泥臭いものである。

 

 

 球拾いやケースを運んだりといった雑用や、道具の管理、選手たちのユニフォームの洗濯なんかもマネージャーの仕事だ。

 

 

 凛々しい顔で運動している野球部の青少年たちを見て、かっこいいと頬を染める女子たちもいることだろう。私とて、かっこいいと憧れることに異論はないのだ。

 

 

 しかし、彼らのかいた汗が爽やかかといわれればそんなわけはない。まるで牛乳を拭いた雑巾、とは言わないまでも、臭いものはただただ臭いのだ。

 

 

 そんなものを毎日のように洗っていると、百年の恋も冷めようというものである。やはり、かっこいいものは関わらずに眺めるに限る。

 

 

 さて、そんな我が校の野球部は、果たして実力はいかほどのものなのか。それは見ていただければ一目でわかるであろう。

 

 

 ピッチャーの目にも止まらぬボール球。四番バッターの鋭いスイングから放たれるインフィールドフライ。ショートの卓越した技術による悪送球。見所はいくらでもある。

 

 

 私の方まで飛んできた悪送球を何食わぬ顔で避けながら、罵声を呑み込んで慰めの声をかける。ちなみに本日三回目。いつもよりはましな方だ。

 

 

 地域の野球少年をかき集めて結成された小学生チームと手に汗握る熱戦を繰り広げたのは、つい先週のことであった。

 

 

 四番バッターの奇跡的なライトフライのエラーによる二点の加点によって一点差で勝利した時には思わず涙を零しそうになったものだった。

 

 

 なんとかせねばなるまい。私は考えていた。このままでは、ただ悪臭に耐え続けるだけの青春を送ることになる。

 

 

 甲子園とまではいかないまでも、高校野球のマネージャーになったのだから、せっかくなら大会のイイところまで進みたいのだ。

 

 

 しかし、弱小チームの代表ともいえるような我が校の野球部を鍛え上げるには、いったいどうすればいいのだろうか。

 

 

 私が「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という長いタイトルの本を読んだのは、そんな時だった。

 

 

野球部と企業経営

 

 迷った私は、大型書店に足を運ぶことにした。自分では思いつきそうにないから、本に野球部を上手くするための都合のいい秘策とかないかなぁ、と企んだからである。

 

 

 そして、野球関連の本を適当に漁ってみたが、そもそも、私は物語以外の本を読むのは苦手だった。自分がやるわけでもない野球ともなるとなおさらである。

 

 

 そんなわけで、さっそく暗礁に乗り上げてしまった私は、ダメ元ながらに店員に聞いてみることにしたのだ。

 

 

「あの、すみません。野球部のマネージャーにおすすめの本とか、ありますか」

 

 

 店員さんは、ああ、それなら、と一冊の本を持ってきてくれた。それが「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」であった。

 

 

 通称、『もしドラ』と呼ばれているその作品のことは、もちろん私も知っていた。一時、大きな話題になった本だったからだ。

 

 

 女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』という企業経営の本を野球部に応用するという話だったはず。

 

 

 まさに私自身が高校野球の女子マネージャーではないか。私はある種の天啓を感じた。

 

 

 ドラッカーの『マネジメント』は難しすぎて読むことができそうにない。間違いなく投げ出すという確信があった。

 

 

 しかし、『もしドラ』ならどうだろう。絵はかわいらしい。主人公は自分と同じ野球部のマネージャーで、共感することもできる。

 

 

 ストーリーもあって、企業経営の応用をわかりやすく教えてくれている。しかも、実践を以てして、だ。

 

 

 『もしドラ』のみなみはドラッカーの『マネジメント』を教科書として野球部を成長させていった。

 

 

 ならば、私はその『もしドラ』を教科書にすればいいのではないか。そこに書かれているのはフィクションとはいえ、すでに成功した事例なのだから。

 

 

 これだ。これしかない。私は確信を得て、その本を買った。文庫本だから値段は六百円くらい。帰りに買おうと思っていたケーキを我慢する羽目になった。

 

 

野球部を甲子園まで導いた一冊の本

 

 川島みなみが野球部のマネージャーになったのは、高校二年生の七月半ば、夏休み直前のことだった。

 

 

 みなみはまさか自分が野球部のマネージャーになるとは思っていなかった。野球部とは縁もゆかりもなかった。ところが、思いもよらない事情から野球部のマネージャーをすることとなった。

 

 

 マネージャーになったみなみには、ひとつの目標があった。それは、「野球部を甲子園に連れていく」ということだった。

 

 

 しかし、どうしたらそれを実現できるか、具体的なアイデアがあるわけではなかった。みなみは、野球部はおろか、マネージャーのこともよくわかっていなかったのだ。

 

 

 野球部のマネージャーになって、みなみがまず初めにしたことは、「マネージャー」という言葉の意味を調べることだった。

 

 

 広辞苑の説明を読んで、みなみは「マネージャー」というものを「管理や経営をする人」だと理解した。

 

 

 次に、近所の大型書店に出かけていった。店員に尋ねると、ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』を紹介された。

 

 

 そうして彼女は、中身も見ずにその本を買い求めた。値段は二千百円と少し高かったものの、世界で一番読まれた本というのが気に入った。

 

 

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