ウイルスに悪意はない。その言葉は、さて、何かで見たような気がするのだが、どの作品だったろうか。
テレビでは毎日のように感染者の人数が数えられている。感染症が見られるようになってから一年と経っていないというのに、世界は一変してしまったように思う。
どこかの本で言っていた。これから、世界が危惧するとするならば、感染症であろう、と。それが今、現実のものとなっている。
村上龍先生の『ヒュウガ・ウイルス』を読んだ時、私は今の社会と重ねてしまう自分に気付いた。
それはIFの世界の物語である。その世界では、世界大戦を最後まで戦い続け、日本という国がUGと名を変えて地下に潜っている。
作中の日本は、ひどく荒廃した社会だった。他国の兵隊に支配され、旧日本人は搾取されている。
若者は退屈さから自らの身体を傷つけ、地下水路では薬品で変貌した人間が生活をしている。
アメリカの記者、コウリーは、誰も足を踏み入れたことのないUGの取材に侵入することに成功した。
そして、彼女はUGの精鋭たちとともに、恐ろしいウイルスが広がったヒュウガ村の対処をする任務に同行することになる。
作中のヒュウガ・ウイルスは人の命を奪う存在だ。悪意なく、それはただ機械的なシステムのように、人を死に至らしめる。
ウイルスには意思はない。朝だろうが夜だろうが関係はない。男だろうが女だろうが関係はない。余暇だろうが仕事中だろうが関係はない。
それは、今まさに私たちを脅かしているウイルスも同じだろう。それらは人間の敵ではない。彼らがずっと繰り返してきたことに、私たちがようやく気付き、怖れているだけなのだ。
病院が悲鳴を上げ、飲食店業界が苦境に喘ぎ、政府が警告を発し、差別や中傷が跋扈していた。
にもかかわらず、テレビで平然と大勢の人たちが往来を行き来する光景を見ると、思わず愕然とする。
危機感。それが、今の社会には欠如しているように思えてならない。その事実は、ウイルスよりも怖ろしい。
昼だったら大丈夫だと思うし。とはいっても、仕事だから。外に出ないのはストレスが溜まる。誰もいないだろうと思っていた。
テレビでインタビューされた人たちが、そう語る。理由をつけるのは構わないだろう。それで批判するつもりはないし、自由にすればいいと思う。
けれど、忘れてはならないのは、ウイルスはそういった私たちの事情なんて何も考えてはくれないことだ。彼らは意思もなく、悪意もなく、ただ増えることだけを目指しているのだから。
当初、感染症が騒がれ始めた頃は、よもやこれほどの尾を引くとは、誰も思っていなかっただろう。
しかし、蓋を開けてみればどうか、今や満足に外にも出られず、命を失っている人も数多くいる。それは老人だけでなく、若者の中にすら。
思い浮かぶのは、『ヒュウガ・ウイルス』の荒廃した世界だ。都市は静まり返り、経済も医療も文明も停止する。
病とは、なんと恐ろしいのだろう。私たちが今まで築き上げてきたものを、瞬く間に奪い取るほどの力を持っている、自然の生み出した凶器。
けれど、本当に恐ろしい病は、人の心の中にある。ウイルスは、その病を心の奥底から無理やり掻き出したのだ。
欠如した危機感。正義感の暴走。差別。異分子の排除。無関心。自分は大丈夫という慢心。病は何もウイルスだけじゃない。
作中では、ヒュウガ・ウイルスに対抗するために必要なのは、危機感によって生まれるエネルギーだという。
果たして、今の私たちに、そのエネルギーとやらはどれほど残っているのだろうか。
ウイルスとの戦い
UGの兵士たちが捕虜の武装蜂起の鎮圧にやってくる、というニュースが流れた時、キャンプの中に緊張が満ちていくのがわかった。
「ヘイ、キャシー、やっとUGの連中を見れそうだな」
一か月の滞在中すっかり顔馴染みになった海兵隊の警備将校から、キャサリン・コウリーはそう声をかけられ、表情を変えずに、まあね、と応じ、ビデオカメラの準備を続けた。
B-4のヘッドクォーターオフィスから一歩外に出ると、いつもの匂いがまず鼻をついた。コウリーは他の兵士たちと同じように身を低くして、未舗装の道路を海の方向へと進んだ。
何としてもアンダーグラウンドの内部へと入り込みビデオカメラを回したい、コウリーはそう考えていた。
巨大なスピーカーに電源が入れられた音。スピーカーは海兵隊のヘッドクォーターがある建物の屋上に数台並んでいて、すぐに低く滑らかな男の声でロシア語が聞こえてきた。
「非国民に告ぐ、われわれは日本の国民軍である、十五分後にソビエト兵に対して攻撃を開始する、退去せよ、繰り返す、われわれは日本の……」
収容施設全体に間の抜けた音のサイレンが何度か響いた。ざわめきが止み、一瞬人々はその場に立ち尽くした。
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