私の生まれた家は、昔からお金がなかった。食べるものには困らなかったが、贅沢はできない。けれど、父と母と笑っていたあの頃が、一番幸せだったと思う。
お金、とは何だろう。今でも考えることがある。昔、仲が良かった友だちが遊びに来た時にこっそりと、私や母のお金を盗んでいた、ということがあった。
それがわかった時、私は怒るよりも、哀しむよりも、「どうして?」という疑問が強かったように思う。
多くの人はお金の眩しさに魅了される。あんな紙切れや鉄くずが欲しいがために、どんなことでもしてしまうのだ。
だが、果たして、本当にそれにそこまでの価値はあるのだろうか。
大学を卒業して入社した会社では、ひと月に二十万くらいの手取りがもらえていた。
私は元々お金を大量に使うわけでもない。口座にはみるみるうちにお金が貯まっていった。私はそれを、嬉しく思うでもなく、ただ無感情に眺めていた。
あるからには、使わなければいけないのかな。適当に散財してみたりもしたが、それでも心は満たされない。
それどころか、増えていく貯金とは裏腹に、仕事が精神的につらくなっていく。そんな私を、お金は助けてはくれない。
その仕事を辞めた後、何度か正社員として企業に勤めることがあったけれど、いずれも長くは続かなかった。
仕事を辞めたことで、口座からはお金が次第に減っていく。失業保険なんてのも受け取っていたけれど、それもなくなってからは減る一方になった。
半年くらいは働きもせず、減っていく貯金通帳を眺めるだけの毎日。けれど、減っていくお金を見るその日々は、働いていた頃よりも生きている実感を持っていた。
石田衣良先生の『清く貧しく美しく』を読んだ時、私は主人公である堅志と日菜子に憧れた。
優秀ながらもずっとバイトとして働く堅志と、パートとして働く人見知りで大人しい日菜子。二人は付き合い始めた当初、あるひとつの約束をしたという。
自分たちのことを、社会の誰も褒めてくれない。だから、せめてお互いに、些細なことでも褒め合おう。
貧しいながらも、互いに褒め合う堅志と日菜子の生活は、読んでいた私にとってあまりにも眩しく、踏み入ってはならない聖域のようにも見えた。
貧乏であることを尊く思うわけではないけれど、貧しくあるからこそ、彼らの生き様は美しくあったのだろうと思う。
人として正しい姿とは、何か。私はそのシーンの二人こそが、そのひとつの答えなのではないかと思うのだ。
今、私は、正社員ではなくバイトとして働いている。正社員であった頃ほどの給料はないが、自由の利く今の生活はそれなりに気に入っていた。
きっともう、正社員になるということはないと思う。金があっても時間がなければ意味がないのだと、身に染みて理解したから。
実家で暮らす今、生活で困ることはなくなった。食事は親が用意してくれる。私が出しているお金といえば、ひと月に一回の僅かな支払いだけだ。
ありがたいことだと感謝はしてるし、楽ではある。再びお金をほとんど使わなくなったことで、私の貯金は少しずつ、けれど着実に増えてきている。
けれど、今でも時々、スーパーマーケットの試食を食べて食いつないでいたあの頃に戻りたいと思うことがあるのだ。
どうやら、よほど私は貧乏であることが性に合っているらしい。空腹と栄養失調で少しばかりの慢性的な頭痛に苛まれていたあの頃が、私は恋しくて仕方がない。
貧しくとも美しい
目を覚ますと、白いクロス貼りの天井が見えた。手を伸ばせば届きそうに低くて、安っぽい造りだ。
渋谷から私鉄で三十分弱、その駅から歩いてさらに二十分はかかるアパートだ。金野レインボーハイツの101号室。
立原堅志は思わず声を上げてしまった。安普請の引き戸が開いて、保木日菜子が顔をのぞかせた。白いエプロンがよく似合う。
「ケンちゃん、どうしたの」
「いや、なんでもない」
堅志は土曜日に三十歳の誕生日を迎える。堅志は三十歳になってもまだアルバイトだった。
ここ数年は正社員になりたいと年末から春にかけて、懸命に就職活動に挑戦していた。六月末の誕生日を控えて、まだ正社員ではない。
キッチンのカウンターに寄せたテーブルで朝食を囲んだ。じっと同棲相手を見つめた。目が合うと、日菜子はすぐにそらしてしまう。
「ヒナちゃん、今日もかわいいね」
「ケンちゃんも、素敵だよ」
堅志と日菜子は一緒に暮らし始めてすぐに約束したのである。広い世の中の誰ひとり、僕たちを褒めてくれる人はいない。だから、お互いにちゃんと褒め合おう。若い二人はそう決心したのだ。
あれから一年が経とうとしている。日菜子がいつも言う通り手間さえきちんとかけるなら、おいしくて身体にいいものはいくらでも安く食べられるのだ。
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