画用紙に広がる、のっぺりとした平面の世界。奥行きはない。右か、左か、上か、下か。それだけ。私が描いたその世界は、一辺400足らずの広さしかない。
絵の魅力にとりつかれたのは、その女性を見たことがきっかけだった。世界一美しい微笑とすら讃えられる女性。『モナ・リザ』。レオナルド・ダ・ヴィンチの筆によって描かれた、謎多き美女。
しかし、私が何よりも心惹かれたのは、その絵に描かれた彼女の微笑ではなかった。彼女の背景に続いている、広大な世界。それこそが、私のすべてを魅了し、とらえたのだ。
彼の絵には、平面とは思えない奥行きがあった。その世界は描かれているよりもさらに遠くまで続いていることがわかった。それは、私が描いた小さく閉じた世界とは比べ物にならない。そこには光があり、闇があり、水があり、風があった。
レオナルド・ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』に描いた背景は、「空気遠近法」という手段が用いられているという。奥の景色であればあるほど輪郭がぼやけ、曖昧になる。それを、彼は絵の中に描いた。
それは芸術の範疇を超えている。科学の世界だった。彼は芸術家でもあり、科学者でもあった。二つの道に精通しているからこそ、彼は天才と呼ばれたのだろう。
以来、私は「遠近法」という絵画の手法に魅了されていった。それこそが、平面の上に奥行きのある立体的な世界を描く魔法なのである。
「空気遠近法」はレオナルド・ダ・ヴィンチが初めて編み出したと言われている。科学者としての視点を持つ彼ならではの偉業だろう。
対して、それ以前は「一点透視法」という方法が使われていた。美術の授業でやったことがある。画用紙の中心に向かって線を引くことで遠近感を出す方法のことだ。それもまた、「空気遠近法」に劣らず素晴らしい。
かつて、多くの絵画にこの一点透視法が使われた。理屈さえ知っていれば、誰でも描ける。その使いやすさこそが、この描き方の魅力である。
その方法をより深く学びたくて、私は一冊の本に手を出した。黒田正巳先生の、『空間を描く遠近法』という表題である。
その本では、イラストの例題を挙げつつ、遠近法がなぜ遠近感を生み出し得るのか、そしてそれはどう描けばよいのか、ということを、子細に至るまでわかりやすく解説してくれている。
読んでいて、感じることがあった。それは、やはり芸術とは、科学と一体なのだということ。それらは一見乖離した無関係なものであるかのように見せていながら、実際には、根本が密接に絡み合っている。
科学と数式。ある種の美しさを持っているそれらが、芸術と切り離せない関係にあるというのも奇妙な縁であるように思う。
しかも、それらはただ絵画にのみ留まるものではない。画用紙を飛び出して、私たちの住まう建築にまで、透視法は影響を及ぼしていく。
昨今の「トリックアート」というものは、その透視法の極致ともいうべきだろう。絵に描いているものが、まるで飛び出しているかのように動き回る。額縁のさらに奥にまで続くかのように、世界が広がっている。
その現実とも非現実ともつかない奇妙な世界こそが、まさしく「遠近法」という魔法が為せる業なのだ。その原点は、古来から続く偉大な芸術家が生み出している。
二次元であるはずの絵画を、三次元にする。実際にはそこにあるはずのない、空間を描く。その技術に、私は強く憧れた。
風景をより正確に模写することは、「絵画」とはいわない。そんなものは写真に任せておけばいい。かつてダ・ヴィンチが『モナ・リザ』の背後に世界を生み出したのと同じく、そこにないものを描くことこそが絵画の骨頂だ。
画家の「感情」や「想い」と同じように、「空間」もまた、そのうちのひとつであるように思う。透視法が長らく絵画の歴史を創り上げたからこそ、芸術はさらなる天才の手によって奥行きを広げた。
画用紙に、筆を走らせる。今や、かつて世界の狭さに絶望した私はどこにもいなかった。この長方形の小さな画用紙の上に、無限にも等しい世界を描けることを、絵画にはその可能性があることを、この身をもって知ったのだから。
科学と芸術の結晶
遠近法は2次元の絵を3次元らしく見せる方法である。だから本書はどんな人にも読んでいただきたいが、特に絵やイラストを描く人だけでなく、3次元を創る建築家、彫刻家たちに、またこれらになろうと学ぶ人たちにはぜひ読んでいただきたい。
知ることによって面白さはさらに増すものである。この人たちは遠近法を知って、絵――というより広く2次元の図像の面白さを味わっていただきたい。
遠近法のひとつとしての透視図法の描き方を説明した技法書は多い。また芸術論としての遠近法論は多いが、幾何光学と視覚の誤解にもとづく過誤もなくはない。
本書はそういう誤解も訂正しようとしている。遠近法は科学と芸術の両方に関連しているから。とはいうものの、読者は豊富な図を楽しみながら気楽な気持ちで、科学と芸術の接点を考えていただきたい。
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