「そんな予算がどこにある! 常識的に考えろ!」
上司の雷を飽きるほど浴びて、ため息をつきながら自分のデスクに戻ると、隣に座っている同僚の鈴木が俺の肩を叩いた。
「災難だったな。これで何度目だ?」
「もう数えきれないな」
俺は肩を竦める。上司とはどうにも合わず、厳しい勉強と試験の末にようやくかねてから夢だった警察になれたというのに、下手すれば辞めされられるのでは、と思うほど口論ばかりしている。
上司の捜査方針と俺自身の価値観が合っていないのだ。もちろん新人の俺が偉そうなことを言えるわけがないのだが、どうにも釈然としない。
「まあ、そう渋い顔をするなよ。正直、俺はお前の気持ちもわかるが、上司の事情ってのもあるからな」
「悪人を捕まえて市民に平和を取り戻すのに、それ以上の事情があるのか?」
怪訝な顔をする俺に、彼は指で不思議な形をつくって見せた。手のひらを上に向けて、人差し指と親指だけを曲げて、その先をくっつけて輪っかのようにした形。
「コイツだよ。金だ、金」
「……まさかお前までそんなことを言うやつだったとは思わなかった」
俺は失望の色を隠しきれなかった。こいつのちゃらけた態度の下にある正義感は本物だと思っていたのに、それも気のせいだったのか。
「まあ待て。俺もこんなことを言いたいわけじゃないんだ。でもよぉ、実際問題、ない袖は振れない、だろ?」
「何を馬鹿な。警察は市民の平和を守るためにある。そのために彼らは税金を払っているんじゃないか。その金はどこにいっているというのか」
「いやまあ……ほら、学校だったり、政治家に懐に入ってたり、公共事業に使われたり、な」
「だとしても警察に割り振られている分もあるはずだ。平和のための金なのに、それを出し惜しみする理由がわからん」
市民の平和を守るべき警察が、平和よりも懐具合を気にする、というのが、すでに価値観が歪んでいる証左のように思えてならなかった。
俺が警察に憧れたきっかけとなった、一冊の本がある。筒井康隆先生の『富豪刑事』という作品だ。ドラマやアニメにもなっているのだから、人気があるのだろう。
神戸大助は刑事である。しかし、一本八千円の葉巻を吸い、キャデラックのセダンを乗り回し、バーバリーの背広を着て、一個十万円の高級ライターをしばしばどこかに置き忘れる。
彼の祖父、喜久右衛門はかつて数々の悪行で金を増やした。しかし、今はその過去を悔やみ、贖罪として大助に惜しげなく財産を使わせている。
行き詰まった難解な捜査を、有り余る金の力で強引に解決していく。会社をつくったり、高級ホテルを貸し切ったり。その湯水のようにお金を使いまくって正義を成すその物語は、なんと爽快で気持ちのいいことか。
これこそが、本当の刑事の姿だ、と俺は思った。「金がない」というせせこましい理由なんて言わない。正義のため、平和のためならば、金なんて些細なことでしかないじゃないか。
とある誘拐事件で、憤る大助。どうしてかというと、要求された金額の小ささゆえに、だ。もちろん、大助以外には途方もない金額だけど、彼は「たったこれっぽっちの金のために、人の命をなんだと思っているんだ」と怒っている。
それは、富豪であろうと貧乏であろうと、持たなくてはいけない価値観なんだと思う。命も、平和も、金とは比べ物にならないほどの価値がある。
人の世の中は、金に眩み過ぎてしまった。「金がない」という言い訳が、「なら仕方がない」とまかり通ってしまう。「この子どもの命が惜しければ金を払え」という要求に、誰も違和感を抱かない。
金とは、そんなに大事なものだろうか。人の命や平和との天秤が成り立つほどの。金は天下の回りもの。でも、今や俺たちが金のために回っている。そんな世の中だ。
もしもこんな刑事がいたら
「さて諸君。五億円強奪事件は、強盗罪の時効七年めまでにあと三か月だ」
でっぷりと肥った特別捜査本部のキャップ福山警視が、メンバーである二十人の刑事を、なかばあきらめの表情を浮かべて見回した。
「投入した捜査員延べ約二十万人、身辺を洗った容疑者約十五万人、作成した捜査資料が資料室の一部屋にぎっしり」
「それでも、容疑者を四人にまで絞ることができたのですから、これまでの捜査がぜんぜん無駄だったわけではありません」事件発生当時からの捜査員だった狐塚刑事は、挑むような眼を向けた。
「最も強い手がかりとなったあの特殊な塗料は、専門店からたった五十六人にしか売られていないことがわかった」
「ベージュ色のカンを買ったやつは十八人。この十八人のうち、三人は女性だった。残りは十五人。この十五人のうち」
「二人は老人です」と、布引がいった。
「二人は六十歳以上の老人。残りは十三人。この十三人のうち、オートバイに乗れないやつが三人。残りは十人だ」
「そのうちの三人には、確実な現場不在証明がある」
「残りは七人」と、狐塚が大声でいった。「うち三人は、買った塗料を使っていないことがはっきりしている」
「残りは四人」掛け合いのように布引が横から叫んだ。
「この四人はいずれも事件当日のアリバイがなく、オートバイを持っていて、年齢は二十歳台後半で、モンタージュ写真に、まあ、似ていると言えば似ていて、例の塗料を買っている」
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