最高傑作と名高い歴史小説『とっぴんぱらりの風太郎』万城目学


 時は太平。戦国の世もすでに過去となり、豊臣の時代は終わりを告げた。今や権勢を握るは徳川である。刀を握る戦いの日々は過ぎ去り、我ら忍びもまた、お払い箱となった。

 

 

 あの頃は良かった、などと独居老人のように過去を懐かしんでも、時は決して戻りはしない。そもそも、戦国の世を嘆いていた身であるからして。

 

 

 人に忍び、世を忍び、時代の影となった我ら忍びは戦の中でしか生きられぬ。太平の世の到来は、すなわち我々の失職を意味していた。

 

 

 かつての同僚の中には、忍んだ仮の姿をそのまま真実とする者あり、戦を望んで今一時は身を隠して隠居する者あり、修行のためと山籠もりする者までいる。

 

 

 そして俺はというとその中で、未だ働かず、かといって戦を望むでも技を磨くでもなく、ただただ怠惰な日々を送っていた。

 

 

 働く気はあるのだ。働かなければ食うものもなし。日夜宿を借りている婆さんのおこぼれに預かるばかりだが、そろそろうまい飯が腹いっぱい食いたいものである。

 

 

 しかし、俺の忍びとしての習性が邪魔をしていた。命令がない。命令がなければ何をすればいいかわからぬ。忍びは自らの意思を持たないのだと、そう教えられてきたからだ。

 

 

「まるでプータローであるな、お前は」

 

 

 この前、訪ねてきたかつての同僚はそう言った。はて、プータローとは何か。意味を聞くと、「働かない奴」ということらしい。ちなみにそいつは地元問屋をしている。

 

 

 俺が臍を曲げていると、ふと、そいつが面白げににやにや笑いながら、思い出したかのように言った。

 

 

「そうそう、お前に丁度いい読み物があるぞ。せっかくだから貸してやろうぞ。『とっぴんぱらりの風太郎』なるものでな」

 

 

 俺に紙束を押しつけて帰っていく奴の背に唾を吐きかけてから、俺はその読み物とやらを見てみた。

 

 

 なんとも奇怪な題名である。とはいえ、思わず呟きたくなるような語呂の良さがあるのは確かであった。

 

 

 どうせ時間はある。ならば、暇を潰すにも良いかもしれない。奴の顔は腹立つが、読み物に罪はないのである。

 

 

 さて、物語に描かれているのは、風太郎という男。どうやら忍びらしいのである。豊臣がまだ生きている時代、らしい。

 

 

 訓練で城を傷つけたことで殿の怒りを買った風太郎は、相棒の黒弓とともに生まれ育った伊賀の里を追い出されてしまう。

 

 

 居場所を失くした風太郎は、やむなく吉田山にてあばら家に住みつき、怠惰な生活を送っていた。

 

 

 しかしある時、風太郎の前にひとりの老人が現れた。その老人は鈍ったとはいえ忍びであった風太郎を、さながら赤子のように手玉に取る。

 

 

 老人は因心居士と名乗った。彼は風太郎にひとつの頼みをする。瓢箪屋を営んでいる「瓢六」という店に、小さな木箱を届けてほしいと言うのだ。

 

 

 いつしか、俺は夢中になって読みこんでいた。終わりの頃にまで差し掛かったところなぞは、思わず拳を握り風太郎を応援したものである。

 

 

 忍びとしての腕は未熟、好漢とも言い難い風太郎。彼は最後まで風太郎らしく、それでいて格好よくなるのである。

 

 

 当然、現実にはない物語だとは承知していた。それでも心動かされたのは事実である。風太郎の物語は、それほどの力を持っていた。

 

 

 俺は、今まで何をやっていたというのか。忍びとしての俺にいつまでも囚われ、俺には自分自身というものがなくなっていた。

 

 

 風太郎は忍びとしては俺には敵わぬ。忍びとしては未熟者。だが、未熟だからこそ、俺は風太郎のようになりたかった。

 

 

 風太郎は自分という芯を身体の真ん中に持っている。故に曲がらぬ。自らの信念を、最後まで貫いていた。

 

 

 俺は、どうだ。俺には貫くべき芯がない。いくら優れた忍びの腕を持っていようとも、押せば倒れる、葦のようなものだ。

 

 

 俺は書物を閉じ、立ち上がった。変わらなければならない。俺自身を取り戻すのだ。

 

 

 風太郎のようになりたいが、俺はプータローにはなりたくなかった。まずは何にしても、動くところから始めてみよう。

 

 

すべての始まりはにんにくであった

 

 そもそもが、こんなはずじゃなかった。何がどう間違って、こうもにっちもさっちもいかぬ羽目に陥ってしまったのか。

 

 

 あまりのどうしようもなさに、自然と笑いがこみ上げてくる。ほとんど感覚がなくなった唇の端をひん曲げ、無理に笑ってみるが、もちろんおかしいことなんて、これっぽっちもありゃしない。

 

 

 まったく、俺がどこで何をしくじったのだろう。身体がこのまま地面に吸い込まれてしまいそうな重い感覚が腰のあたりから這い上がってくる。

 

 

 自然と瞼が落ちてきて、あまりいい具合じゃないなと思いつつ、少しだけ目を閉じてみた。

 

 

 すると、思い返すべきことは他にたくさんあるだろうに、脳裏に「ぽっ」と浮かんだのは、よりによって一個のにんにくの絵だった。

 

 

 そうだ――、にんにく。全ての間違いのもとは、あのにんにくにあった。

 

 

 あの日、俺は黒弓にらっきょうを買ってこいと言った。にもかかわらず、あいつはにんにくを買って宿に戻ってきた。

 

 

「こんなに大きいのは滅多にないよ。ほら、ほとんど拳ほどもある」

 

 

「でも、それは俺が頼んだものじゃない」

 

 

「別にらっきょうも、にんにくも同じじゃないか」

 

 

 呑気なあいつの提案に乗ってしまったのが、ケチのつけ始めだった。俺はあの時、奴の尻を蹴飛ばしてでも、市までらっきょうを買いに戻らせるべきだった。

 

 

 血で血を洗う争いに明け暮れた、忌まわしき天正の時代は遥か昔、今や日々平安なる慶長の世だ。

 

 

 時は過ぎゆき、万物は流転する。古きは新しきに生まれ変わり、大事な教えもやがてないがしろにされる。らっきょうはいつしかにんにくに変化し、忍びの頭も悪くなる。

 

 

 あっという間ににんにくを平らげた後、俺は懐から三角に折りたたんだ紙を取り出し、板間に置いた。

 

 

 ビードロの器の底に紙の中身を開ける。そこへ黒弓がゆっくりと水を注いだ。底に小山を作っていた粉が溶け、白く濁った水に、、俺は残しておいたにんにくを沈めた。

 

 

 それから、二人して一刻ばかり昼寝した。俺は懐紙でにんにくを包み、紙の上から二十ほど短い針を打った。

 

 

 全ての準備を終えた頃には、とっぷりと日が暮れていた。すでに二人とも、全身、暗い藍染めの忍び装束である。

 

 

 宿賃を板間に置き、「行くぞ」と窓枠に手をかけた。

 

 

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