「人材ではなく、人財になりなさい」
この会社に入社したばかりの頃、新入社員研修で教わった言葉を、不意に思い出したのは、今年入ったひとりの新入社員が、涙ながらに「辞めたい」と訴えた時だった。
今年の新入社員は感染症の影響もあって会社も多く雇うことができず、不作の年だった。その新入社員は、今年唯一の新人である。
彼が入ってくる数日前、私は彼の教育係に指名された。つまり、彼は私の初めての後輩になる、というわけだ。
彼は、今時の若者には珍しいくらい、真面目な男だった。髪は染めてない。女遊びもしたことなく、こちらが心配になるほど大人しかった。
丁寧すぎるくらいに丁寧で、先輩にも堅い敬語を崩さない。他の社員やアルバイトの仕事を通りすがりに自発的に手伝う姿を何度か見かけた。
しかし、私は彼のその様に、神経質で、ミスを過剰に怖れているような印象を抱いた。
丁寧にするのは構わないが、その分、仕事が遅い。迅速を求められるこの会社では、少し致命的ともいえる欠点だ。
とはいえ、見込みがある、というのが、私の意見だった。作業スピードは慣れてくれば早くなるだろう。不和を乱すような性格でもない。態度も真面目で従順だった。
彼の仕事の能率を上げるため、彼には多くの仕事を割り振った。とはいえ、遅れている仕事に手を貸すこともあったため、私の認識としては甘いくらいの接し方だったろう。
半年もすれば、すぐに使い物になるだろう。私はそう思っていたのだが、そうは上手くいかなかった。
仕事に慣れてきた彼は、次第に仕事の精度が下がってきた。小さなミスが多くなる。そのくせ、速度は期待したほど成長していない。
それと同時に、困ることが出てきた。彼が頻繁に質問をしてくるようになったのだ。
わからないことは質問するように、とは伝えている。しかし、いくらなんでも多すぎだった。私自身の仕事が妨げられ、私は次第に疎ましく感じるようになっていった。
やがて、彼は私の指導下を離れ、自分自身の仕事を持つようになる。彼の成長度合いには不安があったが、もう自分は教育係ではなくなったのだと、目を背けた。
だからなのだろう、彼の変化に、私は気づかなかった。いや、本当は気づいていたのかもしれない。ただ、私は見て見ぬふりをしたのだ。
「もう、仕事、辞めたいんです」
涙ぐみながら言う彼に、私はかける言葉を持たなかった。いったい何を言えばいいのか、私にはわからなかったのだ。
指導下を離れた彼は、同じ担当のアルバイトとそりが合わず、ますますミスが増えて、表情から笑顔が失われていったらしい。
「そうか」
私に言えたのは、そんな言葉だけだった。引き留めることも、怒ることもお門違いだということは自覚していた。
そうして、彼は仕事を辞めた。彼がいた場所には代わりの担当が割り振られ、会社は何事もなかったかのように回っている。
唯一の新入社員が辞めたのは、会社にとっても損失が大きい。彼にかけた費用も時間も失ったのだから。
「まあ、彼は忍耐力が足りなかったねえ」
まったく、最近の若者は。上司がそう言うのを、私は疲れた表情で聞いていた。新入社員の彼が悪い。そう結論付けられていて、私が責められることはなかった。
しかし、私が初めて受け持った後輩が辞めたことは、私の心に蟠りを残していた。
私は彼に何ができたのか。はたして、良い上司となれていたのだろうか。彼を引き留めることができたのでは。
「人材ではなく、人財になる」
新入生が人財になることを目指すように、研修では教えられる。教育係の仕事は、その手助けをすることだ。
彼は人財になり得る人材だった。それを失ったのはなぜか。私は、彼にとっての良き上司にはなれなかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、ふと、本屋の店頭に並んだ一冊の本が目に入った。思わず手に取る。
『人材を人財に変える』。そう書かれていた。それは、部下の育成とマーケティングの本らしい。
そうか。彼が新入社員だったのと同じように、私もまた、教えることについて未熟だったのだ。知識が足りなかった。
結果的に指導を担当していた私に、もう一度チャンスはあるのだろうか。しかし、次はもう、同じ失敗は犯したくはなかった。
人財を育てるために
本書は、企業人として、どのようにすればうまく部下を指導することができるかということについて、説き明かしたものである。
そこには、すべてのエグゼクティヴに共通する成功の秘訣をあなたのものにしていただくための、多くの工夫がこらしてある。
さまざまな人々の成功例を紹介して、そのメカニズムを統計的に分析し、マネジメントに活かせるように配慮した。
さらに、長期にわたる実践や調査の中から選びだした成功例を分けて、それぞれの事例に対処できるアイディアや方法、テクニックをまとめてある。
ある部門の長である企業人にとって、部下のモティベーションを高めることこそが、その職務の大半を占めるといっても過言ではない。
部下に仕事に対するヤル気を出させるためには、あなた自身が常に積極果敢に行動し、進んで困難な仕事を引き受けるなどして、部下にとってのよくお手本となることだ。
そのために、本書に書いたさまざまな成功ノウハウを、あなたの潜在意識に組み込まれるまで何度も読み返し、その秘訣をあなたのものにしていただきたい。
エグゼクティヴにとって一番重要な仕事は、優れた部下の育成である。部下のモティベーションを高め、不屈の精神を涵養してこそ、エグゼクティヴとしての職務は全うできるのである。
そしてあなたが、優秀な部下を育てるということは、すなわちあなたが会社のトップクラスに近づくことにもなるのである。
本書がエグゼクティヴの皆さんの新たな指針となり、企業でもっとも大切な資産である優秀な人材を育て上げることができたなら、私にとってこれほどの喜びはない。
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