鏡をね、見たんですよ。えぇ、そうです、あの、鏡。それがきっかけでした。鏡を見たから、私は罪を犯したんです。
きっかけは鏡だと言いましたけど、そのさらに前の、事の始まりを教えましょうか。えぇ、本をね、読んだんですよ。
タイトルは、はて、なんだったかな。ああ、そうだ。『平気でうそをつく人たち』っていう本です。なんだか話題になった本らしいですね。よく知りませんでしたけど。
作者はペック先生っていう、精神科医の先生様だそうで。先生が今まで患者 を、あるいは患者の保護者を見てきた経験を綴っているんです。
その本がどうして鏡を見ることにつながるのか、ですか。まあ、焦らず、話を聞いていってくださいよ。どうせ、時間はたっぷりあるんだし。ああ、あなたには、なかったんでしたっけ。
その本を読んだ直後、私は鏡を覗きに行きました。考えることはすでに自失していました。ただ、本能的に、私は鏡に向かったのです。
そこに映ったもの。ええ、もちろん、私自身でした。蒼白い顔をして。でも、そんなことはその時の私には重要じゃなかった。
私の目には、鏡の中にまったく別のものが見えていたんです。その瞬間、私は思わず拳を振り上げて、鏡を割ってしまいました。
私がそこに見たのは、私です。私自身です。わかりますか。容姿ではなく、私は、私の本質そのものを、鏡の中に見つけたんですよ。
それはやっぱり、『平気でうそをつく人たち』を読んだからでしょうね。たまらなく苦痛でしたよ。
ペック先生が今まで診察してきた人たちを書いている、と言いましたね。彼らには、ある共通点があります。
それは、「邪悪」であること。その本は、人間の「邪悪」を追求していく本だったんです。
その本の述べる「邪悪」とは、いわゆる「犯罪者」のことではありません。社会の中で確かな地位を持ち、自分を善良だと信じている、あなたのような人のことを「邪悪」と指しているんです。
罪悪感や責任感に耐えることを拒み、他人に責任を押しつけてスケープゴートにして、自分の論理しか認めず、自分を正当化するために自分にも周りにも嘘をつく。
そんな「普通の人」たちのことを、その本は「邪悪」だと言っているんですよ。世間に露見してしまうような稚拙な「犯罪者」とはまったく違う、より恐ろしいものとして、ね。
私はね、その本を読んで、私自身を見返したんです。鏡を見たのは、自分自身を覗き込むためでした。今までの私の人生を、振り返ったんです。
私は、邪悪な人間でした。自分にも他人にも嘘をつき続け、自らを善良だと信じ切っていた。そうなるように、何もかもを騙していたんです。
私がおかしい、と言いますか、あなたは。きっと、あなたも同じですよ。私と同じ。現代社会は、邪悪じゃないと生きていけない世の中になってしまいました。私たちはみんな、罪人なんです。
私は、そのことに気付いてしまった。自分が邪悪であることに気付いてしまった。私が罪を犯したのは、ね、自分の罪を隠し続けることに、疲れてしまったからです。
でもね、今の私はこうして捕まって、あなたに犯罪者のひとりとしてインタビューを受けているわけですけど、私は今、とても清々しい気分で毎日を過ごしているんですよ。
自分が邪悪であると認め、向き合うこと。私はすでに邪悪に染まっている弱い人間だったから、こんな方法でしか、それができなかった。
『平気で嘘をつく人たち』に書かれている邪悪な人たちは、明日のあなたの姿です。それが遠い世界の物語ではないことを、まず、認める。
あなたが善良でありたいと願うなら、まずは自分の邪悪を知ることです。この本は、そのきっかけになるでしょうね。
あ、そろそろ面会時間も終わりみたいで。ええ、ありがとうございました。私のインタビューが使われるのを、楽しみにしていますよ。
世に蔓延る邪悪な人たち
この本は危険な本である。全体としてみればこの本は、治療効果もしくは癒しの効果を有するものだと私は信じている。
とはいえ、この本は潜在的に有害な本である。読者の中にはこの本によって苦痛を受ける人もいるだろう。
この本に書かれていることから苦痛を受けた人は、自分自身に対して優しく、慈悲深くあってほしい。
邪悪な人たちを憎むのは易しいことである。しかし、ある人が邪悪だと気が付いた時には、「まさに自分がそうなっていたかもしれない」ということを思い起こしていただきたい。
ある種の人間を邪悪だと決めつけることによって私は、必然的に、極めて危険な価値判断を行っていることになる。
他人を判断する時には常に十分な配慮をもって判断しなければならないし、また、そうした配慮は自己批判から出発するものだということである。
悪を直視できなければ、人間の悪を癒すことなど期待できない。悪を直視するということは決して気持ちの良い光景ではない。
しかし、にもかかわらず判断することは必要である。人間社会のまさにもっとも暗い部分に属する人たちを科学的に研究する必要がある、というのが本書の主題である。
しかし、今ここで読者にお願いしておきたいことは、まず最初に自分自身を判断し、癒すことなしには、そうした判断を下すことはできないということを心に銘じてほしいということである。
人間の悪を癒す戦いは、まず自分自身との戦いから始まるのが常である。そして、自己浄化こそ、常に我々の最大の武器となるものである。
この本に書かれていることは、いずれも、決定的な言葉として受け取ってはならない。というより、本書の目的は、この問題に関する我々の無知に、我々自身が不満を抱くよう仕向けることである。
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