幼い頃から私は写真に撮られることを苦手としていました。
アルバムには赤ちゃんの頃の写真と、ほんの少しの小学生の頃の写真だけが収められています。
しかし、小学校の高学年の頃の写真は、集合写真を除いては一枚たりとて残っていません。
その集合写真にしてみても、にっこり笑ってピースをしている友達の隣りで、私はひどく不格好な笑みを浮かべて、どこか所在なげにカメラを見つめているのです。
集合写真の中でも楽しげな笑顔の中でその歪な笑みがどうしてだかフィルムから浮かび上がって、目立たぬように肩を縮めていることさえも滑稽に見えてくるのです。
カメラを向けられると、普段のように笑えなくなり、身体が強張りました。じわりと嫌な汗が浮かび、視線が泳ぎ、顔が赤らみ、胸が苦しくなるのです。
友人同士での写真撮影すらも私は頑なに拒否して、彼らをしらけさせることもありましたが、私の写真への恐怖心は並々ならぬものでありました。
だから、なのでしょうか、私の中学・高校生活は取り立てて記憶に残ることもない、ひどく寂しいものになりました。
しかし、その代わり、といったところかはわかりませんけれども、私は写真を撮るのは好きでした。
寝ころんで目を細める猫、住んでいる賃貸アパートの前の雪の積もった道路、遠くの方で連なっている山、列を成して夕方の空を飛ぶ鳥の群れ。
私のレンズの中の世界には、いつだって人間はいません。私は人間以外のものを撮影するのが好きだったからです。
「寂しい世界だな。君の写真は」
彼は私の写真を見て呟くようにそんなことを言いました。彼はどこか哀しげに私を見つめていました。
当時の私は彼の発言が私の写真を批判しているように思えてむっとしていました。しかし、今にして思えば、私は過去の自分の写真を見ても同じことを言うでしょう。
フィルムの中に広がる無機質な世界。道行く人も、撮影する私すらもいない、ジオラマのような何もない世界こそが私の愛した美しさだったのです。
自分の写真がいかに寂しいか。それがわかった途端、きれいだと思って撮影したはずの写真たちが、どれも色褪せたセピア色のように思えてきました。
だから、私はその時、初めて、軽い復讐も兼ねて、彼にカメラを向けたのです。撮影ボタンを押すのは、もう手慣れていました。
驚いた表情の彼。それが、私の誰もいなかった世界に、初めて人が生まれた瞬間でした。
思い出を切り取る
カメラに保存されている写真は、彼だけでした。私が写っているのは相変わらず一枚もなくて、彼の写真だけがそこにはありました。
食事を食べている彼。笑っている彼。涙を流している彼。海を眺めている彼。私の何もない世界で、彼は生き続けていたのです。
本を読んでいる彼の姿を最後に、データファイルの続きはなくなりました。こんなことなら、もっといい写真を最後に撮ったのに。
彼が読んでいたのは市川拓司先生の『恋愛寫眞 もうひとつの物語』でした。彼はその話が大好きで、何回も繰り返し読んでいました。
私が初めてその本を読んだ時、私はどうにも好きになれませんでした。切なくて、報われない。なんだか虚しくなったのを覚えています。
でも、今ならわかる気がしました。楽しいだけが恋愛ではない。切ないのもまた、紛れもない、恋愛なのだと、ようやくわかった気がするのです。
写真はただきれいな風景や、かわいい動物を記録として切り取るだけのものではありません。
写真は思い出そのものなのです。思い出を頭の中に置いたままだと、やがては時間の砂の底に沈んで消えていってしまう。
だから、私たちは写真に撮って、その大切な思い出を残しておくのです。
彼にはもう、会うことはできません。でも、彼はこの写真の中で、いつまでも幸せそうに笑っているのです。
謎めいた嘘吐きな少女との出会い
彼女は嘘つきだった。ぼくは、彼女に嘘をつかれるたびに警戒するのだが、すっかり忘れた頃にまた、同じような嘘に騙されてしまうのだった。
初めての出会いは、18歳の春にまで遡る。キャンパスのすぐ裏手を走る国道。そこに掛かる横断歩道の手前に彼女は佇んでいた。
背が低く、おそろしく華奢な身体のつくりの女の子だった。チョコレート色したメタルフレームの丸眼鏡、そして鼠色のシンプルなスモックに身を包んでいた。
彼女は右手を高く掲げ、自分が横断歩道を渡りたいのだという意志を行き交う車たちに昂然とアピールしていた。
どう見ても渡れそうもない横断歩道で手を挙げ続ける彼女は、不器用な人間の小さなサンプル品のように見えた。
ぼくはゆっくりと歩いて彼女に少し先にボタン式の信号があることを教えた。ぼくを見上げる表情には、幼いながらも知性が備わっていて、自分と同じぐらいの歳であることに気付いた。
彼女は鼻炎を患っていた。初めての出会いの時の彼女もやはり鼻を啜っていた。
彼女は鼻にかかったハスキーな声をしていた。ひどくアンバランスな印象を受けたが、それを言ったら、彼女の何もかもがアンバランスだった。
彼女は感謝の意味のこもった微笑みを見せた。ひどくぎこちない笑顔だった。完璧な笑顔を見せたかったのだろうけど、その60%くらいで精一杯といった感じだった。
「さよなら」
彼女はそう言ってぼくに背を向け、歩き出した。ぼくもきびすを返し歩き始めたが、7歩目でふと思いついて立ち止まり、バッグからカメラを取り出した。
ファインダー越しに彼女を捕らえ、すばやくピントを合わせてシャッターを押した。それが856枚のうちの最初の一枚になった。
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