裏返すか、裏返されるか『エンド・ゲーム 常野物語』恩田陸


 何度憧れたことだろう。この戦いから解放された日々のことを。ゆっくりと眠ることができる、平和な世界を。

 

 

 草食動物は、決して熟睡しないのだという。いつだって浅い眠りのまま、疲れた身体を休ませている。肉食動物に襲われたとき、すぐに逃げることができるようにするためだ。

 

 

 私はまさに草食動物だった。熟睡することなんてできない。眠ってしまったら、その瞬間、あいつらが私を狩りに来るだろう。

 

 

 父も母も、あいつらに狩られた。もう、私だけだ。狩られる前に、こちらがあいつらを狩らねばならない。

 

 

 身体を丸めて、眠らないように他愛ないことに思考を走らせ続ける。恩田陸先生の『エンドゲーム』を読んだのは、ほんの一年前のことだ。

 

 

 常野物語という不思議な力を持つ人たちが描かれるシリーズで、私はそれが大好きだった。

 

 

 『エンドゲーム』はその一冊なのだけれど、その作品を読んだことは、長く私の心に残ることになった。それは今まで読んだ別の作品とは全く異なる雰囲気を持っていたのだ。

 

 

 瑛子とその娘、時子は日常を送りながら正体不明の敵と戦い続けている。瑛子の夫は何年も彼らのもとに帰っていない。

 

 

 敵は人とは違う何かの姿を取って現れ、瑛子と時子を「裏返そう」としてくる。対して、瑛子たちは裏返されないように敵を「裏返さないと」いけない。

 

 

 少しも気の置けない日常に、彼女たちは疲れ切っていた。そんなある日、時子に一通の電話がかかる。

 

 

 電話相手は母の部下だった。彼女は言う。「瑛子さんが倒れて眠り続けている」と。

 

 

 とうとうひとりになってしまった時子は、母が「いざというときに」といつも彼女に教えていた電話番号を頼った。

 

 

 その先で、彼女は「洗濯屋」という人物と出会うことになる。母を追いかける旅路で、彼女は衝撃の真実を知ることになるのだ。

 

 

 私の敵は彼らとは違う。けれど、戦いに明け暮れていた彼女たちに、私は思わず同志のような共感を覚えていたのだ。

 

 

 ストーリー全体にのしかかる重圧感と緊張感。正体のわからない恐ろしい敵。そこには、それまでの『常野物語』にはない重々しさがあった。

 

 

 あの頃の何も知らなかった私は、なんて幸せだったのだろうと思う。彼女たちと同じように、ある種の世界は、それを知るだけで私たちを分けるのだ。「知る以前」と「知った後」に。

 

 

 何事もなく平和に過ごしていた、というのは、私のただの思い込みだった。父と母は、二人でがんばって平和をいつも通りに必死で保っていたのだ。

 

 

 大好きだった父と母が、あいつらに狩られる瞬間を、私はこの目で見た。あの日から、父と母は私の目の前から姿を消した。もともといなかったかのように。

 

 

 私は母に布団を被されて、布団の中でその光景を震えながら見ていた。声すらも出てこない恐怖というものを、私は初めて経験した。

 

 

 部屋にぽつんと私ひとりだけ残されて、涙すらも出てこなかった。放心したように毎日を過ごして、ふと、唐突に気付いた。

 

 

 今まで父と母が私を守ってくれていた。しかし、その大好きだった父も母も、もういない。

 

 

 次は私なのだ。私が、彼らに狩られる番なのだ。私は戦慄した。自分の身を守るためには、狩られる前に、私があいつらを狩るしかない。

 

 

 それから、私の戦いの日々が始まったのだ。私だけじゃない。私たちはいつだって、穏やかな日常の裏で戦っている。

 

 

 一瞬たりとも気が抜けない。草食動物のように、私はいつも警戒しながら毎日を過ごしていた。

 

 

 あいつらは、いつだって私を狩ろうと虎視眈々と狙っている。あいつらはあまりにも多くて、終わりがない。

 

 

 終わりが来るのは、私が狩られるその時までだ。私は解放されたかった。ゆっくりとふとんに身を沈めて、眠りたかった。

 

 

 ゲームはもう終わっている。私たちは負けたのだ。それなのに、負けた私たちに平和はいつまでも、訪れない。

 

 

戦いの日々

 

 「ただいま」と声をかけ、玄関にボストンバッグを置いて家の中に入った時に、時子はかすかな違和感を覚えた。

 

 

 なんだろう、この違和感は。母が留守なのは知っている。会社の部の研修を兼ねた慰安旅行で、岐阜の温泉に行っているからだ。

 

 

 部屋に異常はなかった。こうして見ると、いつも通りの家の中だ。さっき家に入った時に感じた違和感は何だったのだろう。

 

 

 こんな日だったな。記憶の底で何かが揺らめく。お父さんがいなくなったのは。

 

 

 その時、玄関に置きっぱなしにしていたバッグの中の携帯電話がけたたましく鳴り出して、時子はぎょっとして背筋を伸ばした。

 

 

 慌てて携帯電話を取り出すと、ディスプレイに母の携帯電話の番号が表示されていた。何だ、お母さんか。なんとなくホッとして通話ボタンを押す。

 

 

「拝島時子さんですか」

 

 

 返ってきたのは、若い女性の硬い声だった。

 

 

「私、稗田物産でお母様の秘書を務めさせていただいております河合と申します。今、お母様の携帯番号からかけさせていただいております」

 

 

 きびきびした、しかし緊迫した声。時子は、顔から血が引くのを感じた。

 

 

「実は、今朝、宿の外で倒れているところを見つかりまして、病院に運ばれました」

 

 

 命には別状ありません。ですが。なぜか意識が戻らないんです。ずっと眠ったままで。

 

 

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