戦争とピカソのメッセージ『暗幕のゲルニカ』原田マハ


 一生のうちにあるかないか、人は時として、後の人生を決定づけてしまうような出会いをすることがある。

 

 

 いっしょに美術館を巡っていた友人が、一枚の絵の前で静かに佇んでいるのが見えた時、私は彼女の横顔が、どこか遠くに行ってしまいそうなほど儚く見えた。

 

 

 近づいても、彼女は私に気が付かない。彼女の目から、一筋の涙が頬を伝って静かに零れ落ちる。

 

 

 その時、私はたしかに見たのだ。彼女の心が、一枚の絵画の中に囚われるのを。彼女の人生が、その絵の中に呑み込まれていく瞬間を。

 

 

 白と黒だけの、色のない世界。そのあまりにも有名な絵画のタイトルを、知らぬ者などいないだろう。

 

 

 子どもを抱いて泣き叫ぶ女。振り向いている人面の牛。倒れ込む兵士。灯りを持って飛び込む人。高らかに音のない嘶きをあげる馬。あまりにも凄惨な、日常の崩壊のワンシーン。

 

 

 巨匠、パブロ・ピカソが描いた、加害者のいない、被害者だけの戦争。その巨大な一枚の絵のタイトルを、『ゲルニカ』と呼んだ。

 

 

 その日から、彼女は狂ってしまった。脳裏に残る『ゲルニカ』の残滓を追い求めるかのように、ピカソの作品や、人生を辿っていった。

 

 

 美術館をいつも退屈そうに眺めていた彼女は、もうどこにもいなかった。彼女の心はきっと、今もまだ、あの美術館の、あの絵の前にいるのだろう。

 

 

 私もピカソは嫌いではない。しかし、入れ込むほどではなかった。あの極度に抽象化された『ゲルニカ』は、何が何を描いているのかよくわからない。

 

 

 彼女からの美術館への誘いを断って、ふと、家に彼女の忘れ物が机の上に残っているのを見つけた。

 

 

 それは一冊の本である。『暗幕のゲルニカ』というタイトルだった。私は導かれるように、その本をめくる。

 

 

 暗幕のゲルニカ事件。それは本当にあった事件だ。

 

 

 国連には、『ゲルニカ』を描いたタペストリーがかけられている。しかし、「テロとの戦い」を標榜する国連がイランへの爆撃を決めたその瞬間、そこにゲルニカはなかった。

 

 

 ニュースで報じられた映像の中で、『ゲルニカ』に暗幕がかけられていたのだ。まるで都合の悪いものを隠すかのように。

 

 

 その報道を見た近代美術館のキュレーターである八神瑤子は、『ピカソの戦争』という企画を提出した。

 

 

 彼女はテロによって愛する夫を喪った。アメリカの空爆によって、再び罪のない人たちが亡くなることになる。彼女は彼らの悲痛な叫びを、芸術で訴えようとしたのだ。

 

 

 しかし、彼女の前に大きな壁が立ちふさがる。『ゲルニカ』は、動かしてはならない。突き付けられた現実に、彼女はどう立ち向かうか。

 

 

 その本は、それ自体が強烈な『反戦』のメッセージだった。私には、この物語もまた、『ゲルニカ』の馬と同じように叫んでいるように聞こえた。芸術に込められた、人々の悲鳴。

 

 

 戦争はビジネスだ。権力者にとってのそれは、昔から、利権と領土の絡んでくるゲームでしかない。

 

 

 彼らは机に広げられた地図の、ただ一点を指差すだけでいいのだ。その場所に、日常を暮らす何万の罪のない人たちがいることなど、彼らには何も見えていない。

 

 

 この絵を描いたのは私ではない。あなたたちだ。『ゲルニカ』の作者はお前かと問われたピカソは、ナチスにそう言い放った。

 

 

 『ゲルニカ』は、地図の上で戦争をした権力者が、カンヴァスではなく、現実の世界に描き出した作品なのだ。

 

 

 『ゲルニカ』に込められた強烈な反戦のメッセージ。しかし、それらは当初、多くの人が受け取らなかった。『ゲルニカ』の評判は最初、悪かったのだという。

 

 

 人間は愚かだ。今もまだ、この世界から戦争はなくなっていない。被害者たちの悲痛な叫びを、暗幕をかけて目を逸らそうという者がいるからだ。

 

 

 なんだかやりきれない思いが、私の胸の奥で渦巻いていた。今なら、彼女と想いを共通できるだろう。私もまた、『ゲルニカ』に囚われたのだ。

 

 

 今度、彼女が美術館に行くときは、私もついていこう。そして、受け取るのだ。ピカソのメッセージを。今の私には、それを受け取ることができるような気がする。

 

 

一枚の絵画に込められた願い

 

 目の前に、モノクロームの巨大な画面が、凍てついた海のように広がっている。

 

 

 泣き叫ぶ女、死んだ子ども、いななく馬、振り向く牡牛、力尽きて倒れる兵士。それは、禍々しい力に満ちた、絶望の画面。

 

 

 瑤子は、ひと目見ただけで、その絵の前から動けなくなった。真っ暗闇の中に、ひとり、取り残された気がして、急に怖くなった。

 

 

 目をつぶりたいけれど、つぶってはいけない。見てはいけないものだけれど、見なくてはいけない。

 

 

 瑤子たち一家は、休日ごとに、マンハッタンにある美術館を訪ねて歩いていた。銀行員だった父の赴任に伴って、家族でニューヨークに移り住んだ年のことである。

 

 

 その日、家族揃って、初めてニューヨーク近代美術館を訪れたのだった。おもしろい絵があるわよ、と近代美術館に到着してすぐ、母が瑤子に語りかけた。

 

 

 母が言っていたのは、パブロ・ピカソの絵のことだった。そして、瑤子はひと目でピカソの作品に引きつけられてしまった。

 

 

 瑤子は、いつしか夢中になった。両親から離れて、どんどんひとりで見ていった。大きな展示室へ入っていった、そのとき。軽やかな足取りが、そこでぴたりと止まった。

 

 

 目の前に、モノクロームの巨大な画面が広がっていた。どのくらいの時間、その絵の前に立ち止まっていたのかわからない。が、瑤子はそこから動けなくなってしまっていた。

 

 

 瑤子、瑤子。母の呼ぶ声がした。瑤子は、母の手を握って、怖々と訊いた。お母さん、何? この絵。母は、〈ゲルニカ〉という題名の絵よ、と言った。

 

 

 昔ね、戦争があったの。これは、戦争に苦しむ人たちを描いた絵だということよ。もう戦争なんかしちゃいけないって、ピカソは絵で訴えたの。あなたには、まだわからないかもしれないわね。

 

 

 母の手をしっかりと握ったままで、瑤子はその絵の前を立ち去った。

 

 

 振り向いちゃだめだ、振り向いちゃだめだ、と瑤子は心の中で繰り返した。けれど、室から一歩出た瞬間に、瑤子は思わず振り返った。

 

 

 画面の中でこちらを振り向いている牡牛と、目が合った。牡牛の瞳は、戦慄していた。それは、世界が崩れ去る瞬間を見てしまった、創造主の目のようだった。

 

 

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