昔のことだ。近所で開催されていた画展を見に行ったことがある。すでに曖昧な記憶になっているが、飾られた数々の絵に、圧倒されたのを覚えている。
少し変わった画展だった。錯視を利用した絵画、いわゆる「トリックアート」だけを集めた画展だったのだ。だからこそ、絵画鑑賞に興味の薄かった私にも楽しめた。
恐竜やクジラや魚が額縁から飛び出し、床にはどこまでも続くような穴がぽっかりと開いている。どこから見ても角が追いかけてくる街並み。大きく口を開けた怪物。立体的なブリキの犬。ペンギンが壁の穴から泳ぎ出し、自分の身体がアリスの世界のように大きさが変わる。
それは、あまりにも不思議な世界だった。すべて紛れもなく平面であるのに、どこから見てもそれは立体の質感を持っている。絵の世界に自分が入っているような、あるいは絵が世界に抜け出てきたかのような、そんな感動があった。
私が「だまし絵」に魅せられたのは、その時が最初だったように思う。時として絵が見せる奇妙な錯覚は、二次元の可能性を広げるようにも感じたのである。
美術の教科書に載っていた、もっとも親しみ深いだまし絵の画家といえば、まず名が挙がるのはマウリッツ・エッシャーであろう。
『滝』という作品がある。見た瞬間、わけがわからなかった。手前にある柱が、いつの間にか奥の屋根を支えている。手前に流れているはずの滝よりも、奥にあるはずの柱が前に出てきている。
『無限階段』という作品がある。階段を登っているはずなのに、いつの間にか再び元の高さにいる。階段はぐるぐる回り、頂上というものがそこには存在しない。
ペンローズの三角形というものがある。一見すれば普通の三角形のようであるのに、よく見れば角が奇妙な接合の仕方をしている。そのせいで、現実では決してありえないものが平面の上に出来上がっている。
平面であるはずの絵を現実の世界に蘇らせたかと思えば、現実では決してありえないものを絵の中に生み出す。それは平面である絵だからこそ、可能となる不可思議である。
私はその世界を、いつか自分で創ってみたいと思っていた。私はただエッシャーが好きなのではない。彼のその絵に憧れたのだ。いつかは私も、と。
「お前にできるわけがないだろ」
描こうとする私を、クラスメイトはこぞってバカにして笑った。私は言い返せなかった。もしも、私ではない誰かが同じようにエッシャーのような「だまし絵」を描こうとしていたのなら、私も笑う側にいただろうから。
私にとってエッシャーは特別だった。彼は画家であり、同時に魔術師だった。彼の筆は魔法の杖であり、彼は絵を通じて私たちの目に魔法をかけているのだ。
悩んでいた私を救ったのは、一冊の本だった。杉原厚吉先生の『だまし絵の描き方入門』という本である。その本を見つけた時、私は驚愕した。
思い出すのは、エッシャーの魔法。トリックアートの奇怪。その世界を、自分の手で生み出せる。憧れてはいたものの、それが可能だとは少しも思っていなかったのに。
私でも、魔法使いになれるのだ。私はワクワクしながらページをめくる。それは、私にとって魔導書のようなものだった。
だが、読み始めてすぐに、私の目にかけられた魔法は解けていく。その本は言った、「だまし絵は特別なものではない」と。
そこに書かれていたのは、あまりにも理論的で明確な、だまし絵の描き方。なんともわかりやすく、私でも簡単に実践できるであろうことがわかった。
それまでは魔法のようだった「だまし絵」。それが今は、ただの絵だった。自分でも描ける、ただの技術。それは何ら難しいものでも遠いものでもない。
魔法は解けた。だまし絵はただの絵だ。魔法ではない。エッシャーは画家以上の何者でもなく、魔法使いなどではないのだ。
だが、だからこそ、私の中にあったエッシャーという人物への尊敬はいっそう高まった。彼は、巧みな技術を駆使することで魔法とも見紛う絵画を数々生み出したのだ。その功績は何者にも揺るがされることはない。
彼は絵の中に、物理学から解放された非現実の世界を再現したのだ。そして、その血脈は、その技は今もなお、この本に、あるいは私の中に、脈々と受け継がれている。
だまし絵を自分でも描く
この本は「だまし絵」とよばれる変な絵を描く方法をいろいろ集めたものです。
「だまし絵」とは、目の錯覚を利用して、見る人に普通とは違った感覚を味わってもらうことを目的としたもので、とても多くの種類があります。
これらの絵を初めて見たときには、とても特別な絵に見えて、特殊な才能をもった人間だけが描けるもののような印象を持つのではないのでしょうか。
この本は、そんな印象をひっくり返したいと願って書きました。特殊な能力がないと描けないように見えるだまし絵も、その構造を調べると、誰にでも描ける技術が見えてきます。
そのような技術をわかりやすく紹介し、だまし絵が誰にでも描けるものであることを、お伝えしたいと思います。
自分でもだまし絵を描いてみたい人、だまし絵をデザインに利用してみたい人など、幅広い人に楽しんでもらえることを願っています。
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