子どもの頃、幼稚園の先生に憧れていました。昔から年下の子を世話するのが好きだったためか、子どもの世話がとても好きだったからです。
そういえば、高校生くらいだったでしょうか、一冊の本を読んだ覚えがあります。『騒がしい楽園』というタイトルの。
表紙には幼稚園児の姿が描かれていますが、目元が隠れていて、少し不穏な雰囲気。でも、幼稚園が舞台の作品ならばと思い、当時は手に取ったのです。
当時は、その本がいまいち気に入らず、読了こそしたものの、あまり印象には残りませんでした。というのも、思っていたのとは違っていたからです。
理論的でクールな幼稚園教諭、神尾舞子は都会の若葉幼稚園に赴任する、というもの。私はてっきり、彼女と暴れん坊の幼稚園児たちが次第に打ち解けていくような、いわゆる学園ドラマ的な代物を想像していました。
しかし、蓋を開けてみれば、園児たちのことなんてほとんど出てきません。さらには、園児のひとりが凄惨な事件に巻き込まれる、という。
当時の私は、その内容が気に入りませんでした。幼稚園教諭に夢を見ていたからでしょうね。その夢を汚されたような気分だったのでしょう。ですが、まさしく念願かなって幼稚園教諭となった今ならば、あの本が描いた現実がわかります。
一時話題になった待機児童。「子どもの声がうるさい」という私からすれば信じられないような地域住民からの苦情。無茶な要求をふっかけてくるモンスターペアレンツ。
降りかかっているのはいつだって、生々しくて汚い大人の問題ばかり。かわいらしい笑い声のこだまする幼稚園の裏側は、これほどまでにオゾマシイ。
多くの大人たちの目には、きっと、私たち幼稚園教諭のことも、子どもたちのことも、人間には見えていないのでしょう。便利な道具、あるいは、迷惑なもの、にしか。
子どもというのは、私たちが思っているよりも賢いもの。隠そうとして隠せるものではありません。多くの子どもたちを預かる施設で繰り広げられる大人の事情なんてものを知れば、歪んで育つのも当然でしょう。
『騒がしい楽園』の中で、どうして肝心の園児たちの描写が少ないのか。その理由も今ならばわかります。幼稚園教諭にとって、素直な子どもたちよりも、大人たちの自分勝手な我儘の方がよほど手にかかるから。
子どもよりも子どもじみている彼らを見つめている園児たちの静かな視線には、思わずぞっとします。彼らは見ている。私たち大人を。私たち大人は彼らに、そんな醜い背中を見せているのです。
そして彼らもまた、成長し、やがてはそんな大人たちのようになるのでしょう。かつて自分が見たことのある大人と同じように!
虐待。ネグレクト。幼児への性犯罪。誘拐。暴力。過剰な愛情。大人はいつだって、描いたら消せない真っ白なカンバスのような子どもたちの心を、自分たちの汚れた事情で塗り潰していく。
かつて、私が幼かった頃、幼稚園は、友達と遊べて、先生とも会える、大好きな場所でした。毎日が発見で、毎日が楽しくて、日々を全力で生きていました。
私たちは誰もが、そんな子どもだった頃があるのです。どんな人間であっても。かつて、あの騒がしくて、輝いていた毎日を過ごしたあの楽園が、そんな場所だと知ってしまったことが、私はただただ悲しくて仕方がない。
楽園の現実
舞子が若葉幼稚園への転任を命じられたのはつい先月のことであった。それまで勤めていた埼玉県郊外の幼稚園で不祥事が発生し、経営母体である喜徳会が教職員の大異動を決定したのだ。
舞子自身はその不祥事に関与していなかったのだが、いずれにしても法人トップの判断なら従わざるを得ない。それに舞子も、都内での勤務に興味があった。
若葉幼稚園は世田谷の閑静な住宅街の一角に建っていた。建物がまだ新しく、園庭の遊具も古びたものは一基も見当たらない。
舞子は園長室をさっと一瞥する。彼が座っている机はナラ材の高級オフィス家具で、応接セットも輸入品。これが三笠野の趣味ならあまり褒められたものではない。三笠野はプロフィール表と舞子を代わる代わる眺めて言う。
「神尾舞子先生。幼稚園教諭は今年で四年目」
前の園長は比較的感情が表に出るタイプで楽だったのだが、今度はどうだろうと舞子は思案する。
「神尾先生。前回は田舎が任地でしたからピンとこないかも知れませんが、こういった市街地に建つ幼稚園には市街地特有の悩みというかトラブルがあります」
「それは具体的にどういったトラブルなのでしょうか」
「有体に言えば騒音問題と待機児童ですね」
ああ、と舞子は合点する。今まで勤めてきた場所ではそういった経験がなかったが、住宅地の中に建つ幼稚園では時折そうした苦情が寄せられるという。
「着任早々、あまり委縮させるようなことも言いたくありませんので、今日はこのくらいにしましょう。どのみち、おいおい耳にされるでしょうから」
思わせぶりな言い方をして何を今更と思ったものの、その程度の脅しで新任の教諭を操縦できると考えてくれているなら逆に好都合だった。
「失礼します」
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