一枚の絵画の裏にある物語を見つめる原田マハ先生のアート小説3作品まとめ


 絵画が立ち並ぶ通路を、私は辺りを見渡しながら歩いていた。美術にあまり造詣が深くない私でも、知っているような有名な絵ばかりだ。

 

 

 私はなぜここにいるのだろう。頭の奥が、どこか霧がかったかのようにぼんやりとしていた。

 

 

 ふと、思い出したのは、賑わう商店街にの裏路地にひっそりと佇んでいたちっぽけな画廊だった。ああ、そうか、今、私はその画廊にいるのだ。

 

 

 絵に興味のない私がどうしてその場所に足を踏み入れたのか、その理由は知らない。気が付くと、ふらふらと入っていたのだ。まるで何かに導かれるように。

 

 

 ひそひそと、囁き声がした。周りのお客はいない。私ひとりだ。絵画の中の女の目が私を追いかけたような気がした。

 

 

「何か、お気に召す絵は、ございましたか?」

 

 

 黒服の男が慇懃に礼をする。顔が青白く、切れ長の目をした奇妙な男だった。いつの間にそこに立っていたのだろう。まったく気が付かなかった。

 

 

 私、絵はよくわからなくて……。私が首を振ると、彼は口元の笑みを深めた。こちらへ、と手で促してくる。彼に誘われるままに、歩いていった。

 

 

 音もなくまるで浮いているように歩いている男は、歩きながら話し続けている。

 

 

「絵はただ色を乗せただけのカンバスではありません。それらの一枚一枚には、裏側に物語があるのです」

 

 

モノクロの世界に描かれた戦争の悲劇

 

「たとえば、ほら、こちらの絵」

 

 

 彼が立ち止まり、そう言って手で示したのは巨大な一枚の絵画の前だった。さすがの私も、その絵は知っている。それぐらい有名な絵だった。

 

 

「ピカソ、ですよね」

 

 

 彼が頷く。私は絵に向き直った。巨大なモノクロの空間。暗闇を切り裂くような明かり。照らされた中で繰り広げられる惨劇。

 

 

 泣き叫ぶ女。傷つき倒れる兵士。駆け込んでくる人。嘶きを上げる馬。こちらを見つめる牡牛。悲鳴や爆撃の音が、どこかから聞こえてくる。

 

 

「ピカソの『ゲルニカ』です。発表当時、この絵は決して高く評価されませんでした。しかし、この世でもっとも強烈な反戦のメッセージが込められた作品でしょう」

 

 

 そこに描かれているのは被害者ばかりだ。爆撃をしている敵はいない。しかし、私は静かなゲルニカの平和を切り裂く飛行機の音を、たしかに聞いた。

 

 

「この絵は平和を願うメッセージそのものです。国連本部にもタペストリーとして飾られています。その絵は、イラクへの爆撃前夜、黒い暗幕がかけられていました」

 

 

 とあるひとりのキュレーターがその絵を巡って奔走したのは、また別のお話でございますが、ね。

 

 

 小さくそう呟いて再び歩き出した彼を、追いかける。ふと、私は思わず、一度だけ、『ゲルニカ』を振り返った。

 

 

 こちらを見つめる牡牛の目が、きらりと光ったような気がした。いや、それは、ただの気のせいだと思うのだけれど。

 

 

戦争とピカソのメッセージ『暗幕のゲルニカ』原田マハ

 

 

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「下手」と蔑まれた画家の淡い恋物語

 

「次はこちらです」

 

 

 彼が差したのは、知らない作品だった。ただ、見ていても、あまりきれいとは言えない。けれど、不思議と私は目を逸らせなかった。

 

 

 動物が潜むジャングルの中で、裸の女が手招きをしている。彼女の口元には、薄い微笑みが浮かべられていた。

 

 

「こちらはルソーの『夢をみた』でございます。同じ画家の『夢』とよく似ていますが、別の作品です」

 

 

 ルソーは自分の絵の才能を信じ、仕事を辞め、絵に没頭するようになります。彼の絵を、多くの批評家や画家たちは馬鹿にし、笑いものにしました。

 

 

 しかし、ルソーは絵を諦めようとはせず、日銭を画材に代えて、ひたすらに絵を描き続けます。そんな彼は、ある時、ひとりの女性に恋をしました。

 

 

 それがこの、『夢をみた』に描かれている女性です。ヤドヴィガというその女性に、ルソーは絵を贈り続けました。

 

 

 多くの人たちはルソーを馬鹿にしていましたが、一部の人たちは、ルソーの才能を見抜いていました。先ほどの『ゲルニカ』を描いたピカソもまた、そのひとりです」

 

 

 とある話では、この『夢をみた』を巡って、二人の専門家の間で解釈が戦わされたのだとか。さて、それでは、次へ行きましょう。

 

 

 彼のその言葉で、私は我に返って彼の後を追った。私の頭の中では、今もまだ、ジャングルの動物の音が聞こえているようだった。

 

 

ルソーを追う絵画ミステリーの傑作『楽園のカンヴァス』原田マハ

 

 

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作品に込められた狂気の画家の想い

 

 私たちは一枚の絵画の前にいた。天に伸びる糸杉。星が瞬いている夜空には、渦巻くような模様が悠然と泳いでいる。

 

 

「ゴッホの『星月夜』。彼が晩年に描いた作品です。渦巻きは彼の精神病の影響との話もありますが、果たしてどうなのでしょうね」

 

 

 フィンセント・ファン・ゴッホは生前ではまったく評価されませんでした。彼の絵が高く評価されるようになったのは、彼が自ら命を絶った後のことです。

 

 

「ゴッホの時代、西洋美術界隈では、印象派が次第に頭角を表しはじめていました。そして、もうひとつ、人気に火がついたのは日本絵画です」

 

 

 ゴッホは日本絵画に傾倒し、魅了されました。彼は日本に憧れを抱き、救いを求めたのでしょう。

 

 

「しかし、アルルに芸術家の理想郷を創る計画も頓挫し、彼は精神的に追い込まれていったのです。そして、とうとう、自ら命を絶ちました」

 

 

 ゴッホは偏屈で気難しく、友人は少なかったのですが、ただひとり、彼の弟のテオだけは彼の理解者でした。

 

 

 しかし、精神を病み、次第に社会から孤立していくゴッホを、テオはどんな心境で眺めていたのでしょうね。

 

 

情熱の画家ゴッホの壮絶な人生『たゆたえども沈まず』原田マハ

 

 

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絵画の裏にある物語

 

「いかがでしたか」

 

 

「楽しかったです。ありがとうございました」

 

 

 私がお礼を言うと、彼はご満足いただけたようで、と答えた。お出口はあちらです、と差された先には、一枚の扉の絵があった。

 

 

「あ、あの、あれは、絵では?」

 

 

「そうですよ」

 

 

 私が戸惑って聞くと、彼はいかにも当然といったふうに返してくる。ますます混乱した。絵の扉なんて、出られるわけがないのに。

 

 

 奇妙に思いながらも、私はその扉の絵に近づいた。手を伸ばし、ノブに触れる。インクの匂いと、木の香り。描かれているはずのノブが、くるりと回った。私の意識が真っ暗に染まる。

 

 

 気が付くと、私は静かな裏路地にひとり、突っ立っていた。あれ、私、何をしていたんだっけ。

 

 

 私はふと、自分の前にそびえる建物を見上げた。かすかな違和感があった。けれど、その正体はつかめなかった。

 

 

 そこには、荒れ果てた廃墟があった。蔦が壁を呑み込んでいて、とても人が住めそうなところではない。私は首を傾げて、いつまでもその建物を見つめていた。