『切り裂きジャックの寝室』という絵画がある。誰もいない薄暗い部屋。そのはずなのに、どこか人の気配を感じるような、不気味な作品だった。
この作品を描いたのは、ウォルター・シッカ―トという人物である。印象派の画家で、当時世間の話題を集めていた「切り裂きジャック」に並々ならぬ興味を持ち、切り裂きジャックと思われる人物が借りていた部屋を自ら借りて、その部屋を描いたのだ。
今もなお、その正体が判明していない伝説のシリアルキラー、「切り裂きジャック」。ロンドンの霧に紛れて次々と女性たちの命を凄惨に奪っていった。その正体を巡って、当時から現代に至るまで、多くの人が容疑者として浮かび上がっている。
「検屍官シリーズ」でよく知られている推理作家のパトリシア・コーンウェル先生は、巨額の自費を投じて独自に調査するほど「切り裂きジャック」の事件に惹きつけられているらしい。そして、彼女の調査の集大成こそが、この本、『切り裂きジャック』である。
読んでみて、私は驚いた。「切り裂きジャック」の正体を、その本は名指ししているのだ。画家のウォルター・シッカ―トこそが、「切り裂きジャック」の正体である、と。
その根拠は、切り裂きジャックから届いたとされる手紙に残されたDNAとシッカ―トのDNAが一致したことだという。そして、それだけではない。
生前のシッカ―トはある障害を抱えており、それが女性へのコンプレックスとなり、やがて憎悪となった、というのが先生のプロファイリングである。シッカ―トの絵画は不気味で陰惨なものが多く、彼女はそこに女性への憎しみを見た。
実際、そう聞かされてみると、彼が容疑者でも有り得るのかもしれない。しかし、この本に対しても多くの反論がある。物証が少なく、そもそも物証として確かな手紙の一件は、「切り裂きジャック」からではない偽物だと考えられている。
しかも、シッカ―トは事件当時、フランスにいたという説もある。彼の抱える障害は推測の域を出ないという話もある。
つまるところ、正体を掴みかけた「切り裂きジャック」は、再び深い霧の奥へと潜ってしまった、というわけだ。しかし、私はどこか、そのことを嬉しくも思う。
かつて史上最悪の連続殺人事件としてロンドンを恐怖させた「切り裂きジャック」は、今や世界各国の知るところとなり、多くの小説や映像作品の題材にもなった。
すでに、その謎に満ちた存在そのものがひとつのイギリスの文化として定着してしまっているのである。そして、その深い闇そのものに、多くの人が惹きつけられている。パトリシア先生も、そしてこの私も。
しかし、その魅力は、「切り裂きジャック」の正体が明らかになった途端、失われてしまうだろう。彼は「正体不明のジャック」でなければならないのだ。
今もなお、史上最悪のシリアルキラーとして「切り裂きジャック」の名は君臨している。彼は卑劣な犯罪者でありながら、その暗く謎めいた魅力は、正体不明であるからこそ、伝説の域へと到達しようとしているのである。
史上最悪のシリアルキラー
一八八八年八月六日月曜日は、バンク・ホリデイで、ロンドンの町にはさまざまな娯楽があふれていた。クリスタル・パレスではこの日のための各種の華やかなイベントが催されていた。
その日は誰でも金をかけず、不審に思われることもなく、軍人のふりをすることができた。カムデン・タウンにあるエンジェル舞台衣裳屋でロンドン警視庁の制服を借りれば、警官になりすますこともできる。
ハンサムなウォルター・リチャード・シッカ―トの住まいは、カムデン・タウンからわずか三キロほどのところにあった。
二十八歳のシッカ―トは、役者という職業を捨てて、芸術家になる道を選んでいた。シッカ―トはドイツ語、英語、フランス語、イタリア語に堪能だった。シッカ―トがむさぼり読んだのは新聞やタブロイド紙、雑誌などだった。
一九四二年に亡くなるときまで、彼の仕事場や書斎は、ヨーロッパ中の新聞のリサイクルセンターのようなありさまだった。シッカ―トは何らかの形で自分にかかわること以外は、まったく関心を示さなかった。
シッカ―トは上流階級の人々を嫌悪する一方で、彼らにつきまとった。しかし必ずしも彼らと親しかったわけではない。有名無名を問わず、シッカ―トのことをよく知っているものはあまりいなかった。
ウォルター・シッカ―トは、職業上というより、生まれながらの役者だった。彼は妄想にいろどられた秘密の人生の、主役として生きてきた。
シッカ―トは俳優として数多くの役を演じていた。魅力的な女たらしの役もそのひとつだ。しかし現実の彼はまったくちがった。シッカ―トは女性に依存しながら、女性を嫌悪していた。
女はシッカ―トの腹立たしく屈辱的な秘密を思い出させる、危険な存在だった。その秘密は彼が生きている間はもちろん、亡くなってからも明かされることはなかった。遺体を火葬すると肉体についての情報はすべて失われるからだ。
シッカ―トにとってもっとも大切な師であったホイッスラーが女性と恋をしたことが、シッカ―トを史上最も危険で不可解な殺人鬼に変身させるきっかけとなったのかもしれない。
切り裂きジャックがはじめてその凶暴な妄想を現実のものとしたのは、楽しかるべき休日の一八八八年八月六日だった。
その日、彼は袖から舞台へ登場し、一連の恐ろしい公演の初演にのぞんだ。それらは史上最も有名な迷宮入り殺人事件として知られることになる。
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