狂気の問題作『時計じかけのオレンジ』アントニイ・バージェス


 彼は残酷な男だった。

 

 

 彼はいつも仲の良い四、五人で授業を放り出して街をうろついた。彼の所業は地元でも有名だったよ。

 

 

 ほら、この写真を見なよ。この二列目の、そう、この一見おとなしそうな男が彼だ。

 

 

 想像と違ったかい? 彼の顔を見た人は、みんな同じことを言うよ。驚いたように目を見開いてね。

 

 

 でも、見た目なんて関係ないんだよ。彼がピアスでもしているとでも思った? 彼が金髪に染めているとでも、思っていたのかな。

 

 

 いや、違うさ。外見から人の本質は見えないものさ。いくら、人の良さそうな男であっても、内心はどんなことを考えているやら知れない。

 

 

 そう! 彼は紛れもなく悪人だ。見た目は黒髪の大人しそうな少年だけれど、多くの人を傷つけてきたし、償いきれないような重い罪も何度も起こした。

 

 

 それは消すことのできない事実だ。消すことの許されない事実、とも言うべきかもしれないね。

 

 

 たとえば、君は人が川沿いで落とし物を探していたとしたら、どうするかな。

 

 

 普通の人なら、見てみぬふりをするだろうね。でも、きっとその中の何人かはその人に、手伝いましょうかと言うのかな。

 

 

 ところがだ、彼は違う。彼は必死に探しているその人の背中を蹴り飛ばすのさ、思いきり。

 

 

 もちろん、不意を突かれた男は頭から川に落ちる。もう全身びしょ濡れだ。それだけならまだましだけど、川底には石がある。

 

 

 もしかしたら、その石が彼の頭を割ってしまうかもしれない。その危険性はあるだろう。でも、どっちの結果になっても、彼はただ楽しそうに笑うんだ。

 

 

 うん? 許せないって? そうだね。それが正しい意見だと思うよ。善か悪かで考えたら、彼は間違いなく悪い人間だ。

 

 

 でも、『性悪説』っていうのがある。荀子の言葉なんだけれど、『人間は生まれながらにして悪性を持つ』って。

 

 

 彼はたしかに悪だった。でも、それを糾弾したから君は善かと問われると、それは違うと思うね。

 

 

 善悪は一般論ではとても語れない。なにせ、君が思っているよりも、それはずっと複雑なものなんだ。

 

 

 人間はね、善と悪が合わさって出来上がっている。そのうち、悪が多ければアレックスのようになる。

 

 

 悪だけだと、人間は凶暴な獣と同じになってしまう。しかし、善ばかりならば人間は指示に従うだけの支配された機械に過ぎない。

 

 

 そう、それこそまるで『時計じかけのオレンジ』だ。

 

 

善悪と人間性

 

 私のことを人格者と呼んでくれる人は多い。慕われると気分がいいし、頼られるのは自分が必要とされているようでうれしい。

 

 

 だが、そんな私が若い頃は四、五人で学校を飛び出してやりたい放題暴れていた、なんて言ったら信じられないと彼らは目を丸くする。

 

 

 そう、彼とは他ならぬ過去の私のことだ。

 

 

 あの頃は若かった。若いというのは不思議なもので、なんでもできるような全能感じみた確信があった。

 

 

 それは『時計じかけのオレンジ』のアレックスも同じだったろう。彼は自分を仲間たちよりも優れた人間だと信じて、大人たちを見下していた。

 

 

 私はアレックスを嫌悪している。彼がしてきたことを思えば、その理由もおのずとわかるだろう。

 

 

 だが、彼の考えもわかるのだよ。いわゆる、暴力を楽しむ、思う存分好き放題に振舞うことの快感を。

 

 

 意外かい? 私がそれを否定すると思ったかな? 私を暴力的な人間だと蔑むだろうか。

 

 

 その通りだとも。だが、おそらくそれは誰しもが感じることなのではないかなと思うのだよ。

 

 

 たとえば、君が思う存分この食器棚にある皿を割っていいとする。もちろん、割らなくてもいい。でも、そう言われると、君は思いきり割るのではないかな。

 

 

 私たちは善であることを良しとしている。しかし、水清ければ魚住まずとも言うだろう。

 

 

 善しかない人間は、もはや人間ではない。悪徳があってこその人間なのだよ。それをなくしてしまえば、それは人間とは呼べない別の生き物だ。

 

 

 悪を否定し、正義を貫くのはよいことだ。君がそうしていることを心掛けているのなら、ぜひとも続けるといい。

 

 

 しかし、自分の中にある悪を排除しようとするのはいけない。そこまでしてしまうと、正義は独善に変貌してしまう。

 

 

 じゃあ、どうするかって? 自分の中にある悪と向き合うことだ。

 

 

 それは君の醜い部分だ。認めるのは辛い経験になるはずだ。でも、君の仲にある悪を認めることができれば、君はきっと人間として成長することができるだろうね。

 

 

 君が私を人格者と仰ぐなら、そのアドバイスは聞いておくべきだね。なぜなら、アレックスだった彼は自分の悪と向き合うことで人格者とまで呼ばれるようになったのだから。

 

 

暴力を楽しむ少年を通じて人間の本質に迫るSF

 

 「よう、これからどうする?」

 

 

 おれ、というのはアレックスだ。それにおれのなかまたち三人――ピートにジョージ―にディムだ。

 

 

 おれたちは〈コロバ・ミルクバー〉に腰据えて、今晩これから何やらかそうかって、相談やってたとこさ。

 

 

 おれたちはいつものように夜の外に出歩いてちょっとしたお遊びをして楽しんでいた。

 

 

 お遊びってのは、たとえば通りすがりの年取った男の大事そうな本をびりびりに破いたり、仮面を被ってお店に押しかけてお小遣いをいただいたりしていたのさ。

 

 

 その日も、おれたちはライバルのビリーボーイとやり合ってから、今度は小さな庭つきの住宅に押し入った。

 

 

 そこは作家の家らしくってな、眼鏡かけた若い男とハラショーな美人の奥さんがいた。おれたちは散々超暴力を楽しんでたんだが、なんだか嫌な気分になってきたから家を出たのさ。

 

 

 翌朝は学校に行く気にならなくて、おれは若い女の子ふたりと部屋で夜まで過ごした。

 

 

 そのあと、いつもの仲間で集まったんだが、ディムが調子に乗っていたもんだから、おれはちょっと頭にきて誰が上かってのをわからせてやった。

 

 

 それからはいつものお遊びだ。

 

 

 ビクトリア共同住宅のどでかい建物、それからオールドタウンって名の古いタイプの家が並んでいる町だ。

 

 

 おれたちはその高級住宅街のひとつに住んでる金持ちのばあさんに目をつけた。大きな屋敷に、ばあさんと猫だけで暮らしているらしい。

 

 

 おれは仲間たちにリーダーとしての素質を見せようと張り切っていた。だから、おれはひとりで上の窓からその家に入ったのさ。

 

 

 だが、おれがばあさんとゴタゴタやっているうちに、警察のサイレンの音が聞こえてきやがった。

 

 

 おれは逃げようとするが、ディムに目をチェーンで強く打たれた。あいつらはおれを裏切りやがったんだ。

 

 

 そうして、おれは警察に捕まっちまうことになった。

 

 

 高等裁判所で下級判事から言い渡されたおれの判決は、有罪。十四年だってよ。ひどいもんだよなあ、兄弟。

 

 

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