「今、なんて言った?」
「もう別れましょうって言ったのよ」
突然、彼女から突き放すように切り出された別れに、私はひどく困惑した。頭が真っ白に染まり、言葉を忘れたかと思うほどに声が出てこない。
彼女は視線を私ではなく、そっぽに向けている。いつもは猫のような強い瞳が、今は長い睫毛に隠されていた。
彼女とは付き合って三ヶ月になる。出会いはネットのつながりからだった。その間、何度か喧嘩はしたことこそあったが、互いに取り返しがつかないほど険悪になった覚えはない。
私は自分たちを仲睦まじい普通の彼氏彼女だと自負していた。だからこそ、突然の別れに驚きを隠しえない。
何が原因だ? もちろん、彼女にも、私の気に入らない点というのはあるだろう。しかし、ことさらにひどいことをしてはいないはずだ。
そんな疑問が思わず口から漏れたのだろう。自分のようやく吐き出した言葉は思っていたよりも弱々しかった。
「そんな、どうして……?」
「私たちは最初から住む世界が違ったのよ。それが嫌になったの。わかるでしょ」
彼女は強い口調でそう言った。しかし、その声はどこか無理をしているように震えていた。
彼女の左手は自分の長い黒髪の下に隠れた耳たぶに触れている。それは彼女が嘘を吐く時の癖だった。
「……何を隠している?」
彼女は答えない。ただ、伏せた視線の目尻がうっすらと滲んでいる。右の目から一筋の雫が零れた。
「……お義父さん、か」
彼女の肩がびくっと震える。それでも、彼女は答えなかった。
彼女の父は誰もが知っているような大企業の社長だった。彼女はそんな父の惜しみない愛情を受けて育った。
対して、私の父は小さな企業に勤める一介のサラリーマンだ。毎日請求される支払いに愚痴をこぼしながら生きている。
ネットで知り合った彼女がよもや、いわゆる”お嬢様”だとはとても思わなかった。初めて会った時はなんとも驚いたものである。
しかし、趣味もあっていたことから意気投合した私たちが付き合うことになるのに、そう時間はかからなかった。
私と彼女は愛し合っていた。玉の輿を揶揄してやっかんでくる男も多かったが、もちろんそんな意図は露ほどもない。
私は彼女の家に惚れたのではない。彼女自身に惚れたのだ。彼女もそれをわかってくれていた。
しかし、私たちの仲を納得していない人はもっとも身近にいた。彼女の父である。
彼女の父は彼女を自分の企業の子会社の誰かと結婚させるつもりだったらしい。それが、どこの馬の骨とも知れない私の出現によって崩れた。
彼女の父は自分が蝶よ花よと大切に育てた娘をこんな男に奪われるのが我慢ならなかったようだ。私たちを別れさせるために手段を講じてきた。
これには私も彼女もほとほと参ってしまった。しかし、私はどんなことがあろうとも彼女への愛を貫くつもりだった。
ところが、彼女はよほど参っていたらしい。それが別れの宣言である。彼女が本心から言っているわけではないのはわかったが、私にはどうしようもなかった。
彼女と別れた後、雨の中に私はひとり佇む。通り過ぎていく人たちが訝しげな視線を向けてきたが、一向に気にならなかった。
私は最近、読んだ小説を思い出す。『親指の恋人』という作品だった。
彼らは社会に押しつぶされても、最後まで自分たちの愛を貫いた。彼らの姿は私にとっては太陽のように眩しかった。
闇を匂わせる仄暗い作品だった。初めて読んだ時にはこんな理不尽なことがあるかと憤ったこともあった。
しかし、いざ自分がその立場になると、社会とは思ったよりも巨大な敵であることがわかる。
澄雄とジュリアは立ち向かった。彼らは愛のために全てを捨てる覚悟をしたのだ。それは並大抵の覚悟ではない。
私は弱い。彼らとは違う。この携帯電話にたしかに残っている世界一好きな番号に、再びかける勇気すら出ないのだから。
私は携帯を操作して、その番号を削除した。雨が私の頬を伝って流れていく。
格差社会によって阻まれた二人の恋人の悲しい恋愛ストーリー
夏の嵐にはどこか心に浮き立たせる予感があった。江崎澄雄は通い慣れた大学のカフェテリアから、暗くなっていく世界を眺めていた。
澄雄の父親の弘和は外資系投資銀行の社長をしていた。だが、澄雄は就職で親の世話になろうと考えたことはなかった。
誰か自分のことを知らない相手と話がしてみたかった。別な人物を演じて、楽しく快適に生きているふりをするのだ。
検索エンジンに飛び、出会い系・メール・チャットとキーワードを入力する。選択式の設問に答えて、最後の自由に書き込む欄に、澄雄は指を滑らせた。
なにもほしいものはないし、今夜この時間にこの場所で生きていることを後悔してる。もし誰かと出会えるなら、世界が終わる時にいっしょにいてくれる人がいい。
読み返すこともなく送信して、どうでもいい遊びは終わった。しかし、次の瞬間、液晶画面に「ぴったりの女性が001名います」と表示された。
驚いてディスプレイを見つめていると、携帯電話が音もなく震え始めた。澄雄はメールの受信ボックスを開く。
メールの相手はジュリアという女性だった。その文章には、サクラが書いたものとは思えない、澄雄の空ろな心に共鳴する暗い響きがあった。
澄雄は籐の椅子に背中を預け、ジュリアに初めてのメールを打つために、親指をテンキーに走らせた。
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