私は歯車だ。私という存在は、社会という巨大な機械を動かすシステムの一部だった。
朝の決まった時間に目を覚まし、スーツに着替えて出勤し、単調な作業を淡々と繰り返して、退社時間に帰宅して眠りにつく。
変わることのない毎日。楽しいとも呼べない灰色の日々。ただ、私は生きるためにだけ、そんな時間を漫然と過ごしていた。
しかし、いつからだろうか、墨が水の中に広がっていくかのように、心の中に黒い底知れない感覚が広がっていったのは。
私の心は摩耗し、鈍色の光はいつの間にか錆びついていた。いや、きっと以前からこの有様だったのだ。私が目をそらして見ようとしなかっただけだろう。
私はチャップリンの『モダン・タイムス』を思い出していた。歯車の隙間を縫うように進む人間の姿。隣で働く同僚の姿がまさしくチャップリンと同じように見えた。
肩こりの激しい肩に、何かがのしかかっているようだった。黒い塊が私を圧し潰そうとしてくるのだ。
投げ捨ててしまえば、どんなに楽だったろう。しかし、社会人としての矜持がそれを許さなかった。
まるで囚人だ。私は自嘲した笑みを浮かべた。社会という巨大な刑務所で、我々は生きるという罰を課せられている。
私は医師による診断書を握り締めた。そこには堅苦しい文字で過労と書かれている。
職場で倒れたときの状況は記憶にない。目の前が真っ暗になったかと思えば、気がついたら私は寝かされていたのだ。
上司からは休めと言われた。同僚からも後は任せろと言われた。しかし、その表情の裏に、疲れ切ったような、面倒ごとを厭うような感情が見えたのは、私の妄想なのだろうか。
突然与えられた休みに、私は何をすればいいのかわからなかった。思わず愕然とした。
私は仕事が好きなわけではない。しかし、仕事がなくなった私には何も残っていないのだと思わされた。
私という人間は一体何なのだ。自問自答するも答えは出なかった。摩耗して削られた歯車は、やがて社会からも使い捨てられるのではないか。私の心中を不安が支配していた。
私は迷える子羊のように、ふらふらと本屋へと訪れた。何が読みたいでもなかったが、何かをすることで自分の存在を確立したかったのだ。
店頭の本を何の気なしに眺めていく。ふと、ひとつの本のタイトルが目に入った。
『アンチ・サラリーマン』。
なぜか、その言葉は私の心に突き刺さってくるように思えた。それは抗いがたい、天啓とも呼べるような衝動である。私はその本に手を伸ばした。
常識を抜け出せ!
私は読み終えて、本を閉じた。外はすでに暗くなっており、橙色の光が窓から差し込んでいる。
正直なところ、私は困惑していた。あまりにも今までの私の中の常識とは異なっていたからだ。
しかし、不思議と批判する気は起きなかった。むしろ、縛り付けられていたように窮屈だった心が、今や解放されたかのように軽やかだ。
アンチ・サラリーマンという考え方。企業に縛られることなく、自分のやりたい仕事をやりたいようになるという新しい働き方。
私は今まで働かなければならないという考えに囚われていた。働かなければ食べていくことはできず、生きることができないと考えていた。
働くといえば、私にとっては企業に就職するのが当たり前であった。企業の指示を聞いて黙々と働くことで、いつか未来に光明が訪れるだろうと考えていた。
しかし、この本は私の常識が間違いだと告げたのだ。光明は自分から掴み取らねば手に入らないのだ、と。
……仕事、やめるか。
今まで考えたことがないわけではない。しかし、やめた後の自分が想像できなかった。しかし、今はやろうと思うことが胸中に次々と浮かんでくる。
できるのか、私に。特筆する才能がないことは自分がよくわかっている。しかし、このまま勤めていても未来がないのだと思った。
私は過労と記された診断書に視線を投げた。倒れるまで努力して、私が得たのは上司や同僚の迷惑そうな表情だけだった。私は今まで何のために働いていたのか。
私は歯車だ。摩耗してしまった私は、いずれは欠けて社会という巨大な機構から使い捨てられてしまうだろう。
私は頭上を仰ぎ見た。今まで絶対的なシステムのように見えていた社会は、よく見ると老朽化して悲鳴を上げている。
流れ出す黒いオイル。軋む鉄の身体。崩壊は近いように思えた。恐ろしかったそれが、今は古臭い時代遅れの遺物にすら見えた。
変わらねばならない。歯車のままでは、私は回ることしかできない。私はたしかに、自分の心が高揚していくのを自覚した。
新しい時代に適応したアンチ・サラリーマンの働き方
組織理論の専門家であるリンダ・グラットン教授は著書『LIFE SHIFT』の中で「人生100年時代」の到来を予期した。
「人生100年時代」とは80歳前後まで働くという人生プランのことである。
社会システムが目まぐるしく変化していく中、我々が適応していくために、『LIFE SHIFT』では3つの要素が必要であると提唱された。
①学び直し
仕事をしながら自分の新たな可能性を探求し、専門性を高めていく。
②多様な働き方
ひとりひとりがいつでも、どこでも、どんな形態でも仕事ができるように備えておく必要が迫られている。
③無形資産
人的ネットワークや発想、個人の経験値といった無形資産の価値が高まっている。
昨今、叫ばれている「働き方改革」も、時代の変化の流れを汲んだ施策のひとつであろう。
しかし、働き方の多様化に対する警鐘だけが鳴らされているにもかかわらず、社会システムは今もなお古い慣習に支配されている。時代に社会が追いついていないのだ。
終身雇用や年功序列などの従来のサラリーマン制度が崩壊した今、ひとつの企業に注力することの安定性はなくなった。
これからは「複業」が当たり前の社会がやってくるだろう。ひとつの企業で単純作業のスキルを磨くよりも、個々人の創造性を磨くことがより重要となる。
本書では、社会に適応するための具体的な方法を提唱する。それが『アンチ・サラリーマン戦略』である。
『アンチ・サラリーマン』とは「働く場所」や「働く時間」に囚われず、自分が一番パフォーマンスを発揮できる環境を整え、自分に合った「仕事の仕方」を選択することを指す。
ひとつの企業に自分の未来を託すのは、今や安心できない。『アンチ・サラリーマン戦略』こそが、進化していく社会を生き延びるための働き方なのである。
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