私は頭を抱えていた。どうしてこうなったのだろう。今までは、何もかもが順風満帆にうまくいっていたのに。
念願だった会社の代表取締役社長になったのは、つい少し前のことである。前社長から任命されたときはまさに天にも昇るような気持ちだった。
不安はなかった。今まで私は数々の努力をしてきた。経営者としても、自分はうまくやれるだろうという確固とした自信があったからだ。
新入社員から代表取締役社長にまで出世するのは、決して容易い道ではなかった。家庭も自分の時間も何もかも犠牲にして、仕事のスキルを磨いた。
多くの資格を取っていく中で、上司に取り入ることも忘れない。ライバルを蹴落として、自分の印象が良いままで気に入られることを努めた。
その甲斐もあってか、私は異例のスピードで出世していった。しかし、まだ足りない。私の野心は、その程度では満足できなかった。
前社長との接点が持てるような立場になってからは、彼に狙いを定めて取り入っていった。家族ぐるみの付き合いまでするようになり、彼の行き先には常に呼ばれるようになった。
代表取締役社長という地位は、私の何十年にも及ぶ努力の集大成ともいえるだろう。もちろん、人脈だけでなく、スキルも欠かさず育てていった結果だ。
人脈も、能力も、申し分ない。前社長はすでに引退した。これから、この会社は私が舵を取るのだ。私は熱意に溢れていた。
それが、いったいどうしてこんなことになったのだろう。会議で提示されるグラフを見て、私は歯を噛み締めた。
グラフは明らかに私が代表取締役社長になった時期から、目に見えて右肩下がりになっている。著しい業績の悪化だ。
会議に出席している幹部たちから視線が送られる。嫌な目線だ。人の弱みをつけこもうとする、猛禽類の目。かつて、私は同僚にその目を向けていた。
何だ。何を間違えたのだ。私は社長室でひとり、頭を抱えた。秘書が淹れてくれたコーヒーを飲む。苦い。私の好みではなかった。
「社長」
「なんだ」
滅多に言葉を発さない秘書に、私は不機嫌な返事を返した。彼女は前社長の頃から秘書をしている。優秀だと紹介された覚えがあった。
「これを」
彼女が渡してきたのは一冊の本だった。なんだ、これは。そこには『経営センスの論理』と書かれている。
「なんだ、この本は。君は、遠回しに、私に経営センスがないのだと言っているのか?」
「いいえ。社長に経営センスがないのはその通りだとは思いますが」
「なんだと!」
「この本は前社長から預かっていたものです。社長が経営に困っているようなら、ぜひ貸してあげるように、と」
彼女は私が声を張り上げても表情一つ変えることなく、淡々とそう言った。ここで怯えでもすれば可愛げもあるものを。彼女の冷たい顔はまるで鉄面皮のようだ。
前社長は、私にとって利用するうちのひとりに過ぎない。いらない、と突っぱねようと思った。
しかし、事実は変わらない。業績は今も落ち続けている。その理由が私にはわからない。藁にもすがる思いだった。私は彼女の手から本を受け取る。
ページをめくる。彼女の姿はいつの間にか消えていた。気を利かせたらしい。しかし、そんなことは気にならなかった。本に引き込まれていたからだ。
センスとスキルは違う。その言葉が私の胸を刺す。私は自分のスキルに誇りを持っていた。しかし、その本は、経営に必要なのはセンスなのだという。
『代表取締役担当者』。今の私はまさにそれだった。スキルを磨き、人に取り入って経営者になった私には、センスを磨く時間がなかった。
業績が落ちるのは当然だ。私は根本から間違えていた。私がしていたのは経営ではない。今まで通り、「取締役」という職務を言われるがままにこなしていただけだ。
ならば、どうするか。今まで私はスキルを育て続けた。しかし、経営者としてはセンスを磨かなければならない。それはスキルのように簡単ではない。
今まで以上に苦しい道となるだろう。時間もない。私が時間をかければ、それだけ業績の低下を止めることができなくなるだろう。
しかし、私の中に再び枯れかけていた熱意が灯った。経営者としての自覚を持つ。ここが、私の第一歩だ。
スキルとセンス
どうやったら優れた戦略が作れるのか。そんな上等なことがすぐにわかってしまえば世の中苦労はない。誰でも経営者になれてしまう。
昨今のビジネスパーソンのものの考え方のクセというか傾向は、「すぐによく効く新しいスキル」を求めている人がやたらと多い。
英会話や財務諸表の読み方、企業価値の計算であれば、スキルを身につければ何とかなる。しかし、スキルだけでは経営はできない。戦略を創るというのは、スキルだけではどうにもならない仕事だ。
優れた戦略をつくるために一義的に必要なのは何か。それは「センス」としか言いようがない。
スキルとセンスをごっちゃにすると、大体スキルが優先し、センスが劣後する。スキルがあれば、すぐに他人に示せるからだ。
ところが、本来はセンスの問題であるはずのことをスキルとすり替えてしまうと、悲惨なことになる。
本を読んでスキルを身につけて、それでうまい戦略が作れたら誰も苦労はしない。必要な要素の大半はセンスなのだ。
まずはスキルとセンスを区別して考える必要がある。戦略の本質は綜合にある。スキルをいくら鍛えても、優れた経営者を育てることはできない。
スキル偏重のセンス軽視がひどくなると、挙句の果てに、経営者が「代表取締役担当者」になってしまうという成り行きだ。
しかし、こうやったらセンスが身につくという標準的な手法はない。センスは他者が「育てる」ものではない。当事者がセンスある人に「育つ」しかない。
なにも経営や戦略だけがセンスの問われる仕事ではない。なんであろうと自分が優れたセンスを持つ領域を見つけて、そこに力を入れればよい。
スキルも大切だが、自分がどんなセンスを持っているか、そこにもっと敏感になった方がいいと思う。
「センスがいい」とはどういうことか。誰もひとことでは言語化できない。センスは千差万別だ。
ひとつひとつの「センスがいい」戦略の事例に当たり、その文脈で「センスの良さ」を読み解き、掴み取っていく。
センスを磨くためにはそうした帰納的方法しかありえない、というのが僕の確信だ。
価格:814円 |
関連
野球部のマネージャーになったみなみは甲子園に行くことを決めた。しかし、彼女はマネージャーのことがわからなかった。そこで、頼ったのは、ドラッカーの『マネジメント』だった。
組織のマネジメントを目指す貴方様におすすめの作品でございます。
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら (新潮文庫) [ 岩崎夏海 ] 価格:605円 |
大東亜戦争に日本は大敗を喫した。なぜか。日本軍の組織的構造に致命的な欠陥があったからだ。そして、それは現代の組織にも、受け継がれている。
組織を見直したい貴方様におすすめの作品でございます。
失敗の本質 日本軍の組織論的研究 (中公文庫) [ 戸部良一 ] 価格:838円 |