この人が怒ったところを、そういえば見たことないなぁ。目の前の机で食事を食べている上司は、いつもと同じ穏やかな表情で丼をかき込んでいる。
彼は同じ部署で働いている上司である。上司といえば、誰しもミスをやらかしたりホウレンソウができなかったりすると怒鳴り散らして怒ってくるが、彼だけは違っていた。
「次は気をつけてね」というだけで、怒鳴らない。表情も、困ったような、どこか頼りない表情で頭をかくだけである。
怒られないこともあって若い社員からの人気は高い。しかし、俺は彼のその態度をただの「人気取り」だと感じた。若い人に好かれたいだけの、薄っぺらい人間だと。
俺は彼があまり好きではなかった。だから、こうして同じ席で食事をすることになったのは、食堂が満席になった今くらいのものだろう。
ならば、これはチャンスでもある。彼の鼻を明かしてやろうじゃないか。俺の中に、そんな挑戦的な悪意が目覚めた。俺が彼に話しかけたのは、そんな理由からだった。
「最近、若い社員の間でよくあなたの噂を聞くんですよ」
「おや、そうなのかい。もしや、この頭のことかな?」
「いやいや、そうじゃなくて」
どうやら彼は髪が薄くなってきているのが気になっているらしい。柔らかく微笑みながら言うものだから、一瞬毒気を抜かれてしまった。よくこんなことを部下の前で言えるなこの人。
「あの人、怒らなくていいよねー、って、みんな言ってますよ。大人気ですね」
「ああ、なるほどね」
俺は軽く皮肉を込めて言っているのに、通じていないのか、うんうん頷いている。それどころか、いやぁ、悪口かと思ってつい身構えちゃったよ、などと呑気に笑っていた。俺は困惑する。相手は上司だが、こいつはよほどの阿呆なのかもしれない。
「いやぁ、羨ましいですよ。俺なんてすぐに頭に血が上って怒ってばかりで。いったいどうしたら、そんなに怒らないでいられるんです?」
嘘だ。羨ましいわけじゃない。むしろ、部下は怒ってこそ成長するものだと固く信じている。だからこそ、彼が気に入らないわけだが。
「ああ、実は僕も昔は怒ってばかりでね。だけど、この本を読んでちょっと反省したんだよ」
彼はそう言って、鞄から一冊の本を取り出した。おや、なんだ、と思って見てみれば、『人を責めない生き方』と書かれている。
「怒ると冷静さを失う。それで、つい人を責め立ててしまう。あるいは自分をね。そうして、自分も誰もかも傷つくんだ」
「でも、ミスした部下は責めないと、また繰り返すじゃないですか」
「そうじゃないよ。その部下がミスをしたのなら、ミスをするような環境があったからだね」
「環境?」
「うん。ミスしたくてミスしちゃう人なんていない。だからその人のミスを責めても意味がないんだ。だったら、どうしてミスをしたのかという原因を見定める」
「原因というと?」
「たとえば、睡眠不足とか風邪気味とか、そんなだったら本人の健康管理の不足だから何とも言えないけれど、職場の問題なら、ね。つまり、人ではなく、責めるなら仕組みそのものを責めろということだよ」
「じゃあ、本人の健康管理の不足が原因だったら怒るんですか」
「『次は気をつけてね』くらいかな」
彼の考え方は俺には理解できなかった。俺自身は、若い頃、厳しい上司や厳格な親に怒鳴られ、叩かれることで成長したからだ。
人を責めないなんて、そんなことができるわけがない。と思うのだが、俺は間違っているのだろうか。途端、俺は自分の自信がなくなってきた。
「よければ、この本、貸しましょうか」
「いいんですか」
『人を責めない生き方』を差し出されて、思わず受け取る。この本に、俺の知らない生き方が書かれているのだ。その生き方を知りたいと思っている自分自身に、俺は今、気が付いた。
人を責め立てない
しいていうなら、人は自分ひとりでは生きていけない宿命にある。一生のうちには誰しも数えきれないくらい多くの人からお世話になる。
人生経験を重ねるほどに、いろんな人の愛と友情に支えられながら生きてきたことが、心にしみてくるようになる。人の一生とは「感謝の旅」ではないかとさえ私は考えているくらいだ。
しかし、なかには感謝するどころか、思い出すだけで不快感をもよおす相手もゼロではない。謂れなき理由をこじつけられ、毒気を含んだ言葉で私を責め立てた相手がそれだ。
みなさんにはそのような相手はいないだろうか。あるいは、自分にもすぐ他者を責める悪いクセがないか、自身に問い質してみたほうがよさそうな人はいるまいか。
もしいれば、今すぐキッパリとやめたほうがよいだろう。人を責めることは、相手ばかりか、自分をも傷つける、愚かでみじめなことこの上ない行為ではないかと考えるからだ。
たまには人を叱るのもよい。場合によっては命令してもかまわない。だが、怒ってはいけない。もっとよくないのは人を責め立てることだ。それらを主題にひとりでも多くの人の心が晴れることを願いながら書き進めていきたい。
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