これは昔の話である。うだるような、暑い夏の日のことであった。私の父は幼い私の手を引いて墓参りに連れて行ってくれた。
親族の墓ではない。向日葵の咲いた共同墓地の少し外れにある、木陰にひっそりと佇んだ、寂しげなところにぽつんと眠る小さな墓であった。
父は小柄な黄色い花を花立に添えて、苔むして薄汚れた墓石に水をかける。丸みを帯びた天辺から滴り落ちる水が涙のように零れていった。
父は静かに手を合わせる。目を閉じた父の表情は、まるで何かにこらえるように、眉根を寄せていた。どこか悲痛な表情であったことが、今でも印象に残っている。
しかし、幼い時分の私には、当然、墓の情緒など理解できるはずもない。父に構ってもらえないことの退屈さの方が勝っていた。
父に見られていないだろうと信ずるや、そわそわと身体が疼き始める。
「ねぇ、このお墓は誰のお墓なの?」
私が暇を持て余して聞くと、父は目を伏せたまま悲しげに笑みを浮かべた。
「これは、父さんの古い友人のお墓さ」
父はそれ以上のことを話してはくれなかった。
私がそのことを思い出したのは、病床に伏してそのまま最期まで戻ることはなかった父の遺品を整理していた時のことである。
埃被って雪が積もったように真っ白になった本棚には、細い蜘蛛の巣が張られていた。その陰に隠されていた一冊の本が目に入る。
薄茶色に染まった、古めかしい本であった。『野菊の墓』と書かれている。
私の頭の中にかつて見た小さな墓が思い浮かんだ。黄色い花の立てられた寂しげな墓。
私は蜘蛛の巣を払いのけて、本のページをめくった。
花の添えられた小さな墓
父が欠かさずお参りに行っていた墓の下に眠る人を教えてくれたのは母だった。
「私とあの人が出会う前のことだけど、あの人には当時、仲の良かった女性がいたのよ」
初めて聞く話であった。重々しい喪服を纏った母の表情は疲れをありありと湛えた陰鬱なもので、一気に何年も老けたかのようである。
「私も一度だけ会ったことがあるけれど、可憐で大人しい子だったわ。絹みたいな黒髪が女の私から見ても驚くほどきれいだった」
母は当時のことを思い出すように遠い目を虚空に向けた。そこには、幼き頃の情景がありありと浮かんでいるのだろう。
「その子とあの人は仲が良かったわ。明確に恋人とは言わないけれど、二人の間には独特の空気があったように思うの」
しかし、その女性と父は結局、共になることはできなかったのだろう。私がいることが何よりの証左である。
「ええ、そうね。あの人とその子は結ばれなかった」
当時はまだ結婚は家と家とのつながりだったの。あの人の家は地元でも有名な名家だったけど、その子の家は中でも貧乏だった。
あの人との結婚は許されなかった。二人は会うことを禁止されたわ。
「その子はあの人に手紙を送ったわ。それが最後の言葉だった。弱々しい震える文字で書かれていたそうよ」
それから数日後、彼女の訃報が届いたの。
「あの人は私と結婚して愛してくれたけれど、最期まで彼女に勝てなかったような気がするわ。あの人にとって彼女はそれほど大切だったの」
母は悲しげに目を伏せた。
私は古ぼけた墓に水をかける。手入れをしていたのは父だけだったのだろう、父の死後、木陰の墓は荒れ放題だった。
私が彼女の墓を手入れするのはおかしいことだと人は言うだろう。私は彼女のことを何も知らない。
しかし、私はその墓を手入れしなければならないと思った。それが父の思い出に対する花向けだと思ったのだ。
孤独な墓には黄色い花がいくつも咲いていた。陽炎がその墓を夏の日差しから覆い隠した。
大人たちによって引き裂かれた悲恋
後の月という自分が来ると、どうも思わずにはいられない。何分にも忘れることができないのである。
僕の従妹に民子という女の子がおり、よく仕事の手伝いやら母の看護やらで家に来ていた。僕が忘れることができないのは、民子と僕との関係である。
僕は十五、民子は十七であった。僕と民子は大の仲良しで、民子はよく僕のところへ入り浸っては二人で遊んでいた。
しかし、あまりにも仲が良すぎるために母から注意を受け、二人の間にはしばらく隔たりが出来てしまった。
その隔たりがなくなったのは母からの言いつけで茄子畑で茄子をもいでいた時のことである。いつの間にか民子が笊を手に僕の後ろに来ていた。
ともに日を照り返す茄子畑の光景を目にしたとき、二人は決して無邪気な友達ではなかった。僕の胸の内には小さな恋の卵が芽吹き始めていたのだ。
陰暦の九月十三日、民子は僕を手伝いとして山畑の棉を採ってくることになった。二人は心の底では嬉しかろうとも、陰口を言われては極まりが悪い。
しかし、二人は未だ取り留めのない卵的な恋であった。お互いに心持は奥底までわかっているのに、吉野紙を破るほどの力がないのである。
従って、何があったわけでもない。しかし、家に帰れば誰もが常とは違っていた。二人はまったく罪あるものと黙決されてしまったのである。
十七日の朝、僕は学校に向かうため、民子とお増に送られて矢切の渡しへ降りた。
あれ以来、民子は元気がなかった。日に日にやつれてきて、この日も痛々しい様子であった。一言も別れの言葉はなく、小雨の中に二人は別れた。
よもや、これが彼女との生涯の別れになろうとは思いもしなかったのである。
忘れもせぬ六月二十二日、僕が算術の解題に苦しんでいると、小使いから電報が届けられた。
スグカエレの電報に胸に動悸を弾ませながら即日帰省すると、母は雨のように涙を落として俯いている。
僕が母から聞かされたのは嫁に行った民子の訃報であった。
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