彼は人間愛に溢れた人物である。人間賛歌を主義として掲げ、嫌いな人間であっても手を差し伸べる好人物であった。
しかし、一方で彼は人間愛を提唱する反動か、他の生き物に対しては苛烈としか言えないような扱いをしていた。
しかも、ただ嫌うだけならばいざ知らず、彼は胸中に溜まった癇癪を獣に吐き出す傾向があった。
一見、好青年であった彼の裏の顔を知るのは私だけであったろう。彼の動物に対する虐待は年を経るごとに悪化していった。
行為に及ぶときの彼の形相はさながら人間の醜さをそのまま体現させたかのようである。私がいくら諫めようとも、彼は頑としてやめようとはしなかった。
彼は命を軽視していた。人間を価値ある命と考えた彼にとって、それ以外の命は価値がないに等しかった。
今にして思えば、彼は虐待を楽しんでいたのだろうと思う。獣は人間に対する憤懣のはけ口でしかなかったのだ。
やがて、彼はただ虐待するだけにあらず、残酷な実験にまで手をかけ始めた。彼の持つ博識な知識は冒涜的行為に対して注力されることとなった。
私はとうとう腹に据えかねて、彼を諫めたことがある。
「カフカの『変身』って知っている?」
「知っているが、それがどうした。『変身』っていえば朝起きたら虫になっていたってやつだろ」
「もしも、自分が朝起きた時、虫になっていたら、どうする?」
「そんなことあるわけないだろう」
「いいから。少し考えてみてくれ」
彼は心底不愉快そうだった。まるでそんな状況を考えることすらも嫌だとでも言うくらいに。
「そんなことになったら、俺ならすぐに終わりにするな」
「なるほど、ね」
彼の答えに、私は小さく呟いた。
真実か、現実か
ある朝、目をさますと、俺の身体が羽虫に変わっていた。俺は驚愕に目を剥く。
見ようと思えばどの方向でも見れるのは複眼のせいだろうか。自分の足元に視線を向ければ、六本の細い脚が蠢いている。
背中には薄い二対の翅が折りたたまれていた。背中に力を入れると、わずかに振動するが、飛ぶほどに動かすことはできそうになかった。
数日前に友人とした会話が頭の中に思い起こされる。あいつが何かしたのだろうか。しかし、こんな非現実的なことをどうやって?
もしも、『変身』みたいに虫になったら、どうする? 俺はその時になんて答えたのだったか。
むしろ狭いと感じていた部屋の天井が果てしなく遠く見えた。床には毛が無数に生えている。
それはどうやら布団らしかった。俺は眠りに落ちた時の場所をそのままに虫になったのだろう。
どうにかして元に戻らなければならない。こんな醜い姿でいるのは堪えられなかった。
俺はもぞもぞと動き始める。六本の脚はなかなか思い通りに動いてくれず、前に進むことすらままならない。
そうなると、飛ぶというのは想像の範疇にはなかった。翅の動かし方がそもそもわからないのだ。
そんなわけでじわじわ進んでいると、どこか地の底から響くような巨大な音が聞こえた。
それは足音だった。どれほど巨大なのだろう。まるで世界そのものが揺れているかのような轟音だった。
やがて、視界に入ってきたのは見上げるほどの巨人である。俺はあまりにも恐ろしくて動くことすらできなかった。
そいつは俺に顔を寄せてきた。その顔が目に入った時、俺はあまりの驚愕に息をすることすら忘れてしまった。
その巨人は俺だったのだ。だったら、今ここにいる俺は、いったい何者なのだろう。
俺が煩悶としている間にも、巨人の俺は動き始めていた。丸めた新聞紙を棍棒のように振りかぶっているのが見える。
俺は顔色をなくした。俺が今まで羽虫を見つけた時、いったいどうしていただろう。
俺は必死に逃げようとした。しかし、慣れない身体は思うように動いてくれない。そうこうしているうちに、俺の頭上に何か巨大なものが振り下ろされて。
突然虫になってしまった男とその家族の悲劇
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。
彼はもう一度寝てしまおうと考えるが、新しい身体を寝るためのちょうどよい姿勢にすることができず、寝ることはできなかった。
そうしているうちに出勤時間を過ぎ、家族が心配のあまりに声をかけてくる。ザムザは返事をして用意を急ぐが、身体を持て余して上手く動けなかった。
やがて、彼が務める会社の支配人までやってきて、彼の怠惰を非難した。ザムザは弁解するが、彼の言葉はどうやら通じていないようだった。
ザムザはどうにか口で鍵を開け、そのまま飛び出す形で部屋から顔を出した。
彼を見た家族は各々の反応を見せた。母は崩れ落ちて座り込み、父は目を押さえて涙を流した。
支配人が声を上げてその場から逃げていく。彼がこのまま出ていけば自分の地位が危うくなると思ったザムザは止めようとするが、父のステッキによって部屋の中へ追い返された。
こうして彼と彼の家族は唐突に降り注いだ過酷な現実と否が応にも向き合うことなったのである。
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