娘が犠牲になっても芸術を求める『地獄変』芥川龍之介


 絵の具だらけの床に倒れ伏したカンバスを、私は思いきり踏みにじった。鮮やかな色彩が足跡で醜く汚されていく。

 

 

 私は脳髄に巣食う苛立ちを抑えるように髪の毛をがりがりと掻き毟った。薄い頭髪が数本抜けて床に散らばっていく。

 

 

 荒い呼吸が次第に落ち着いていくにつれて、怒りに支配されていた私の頭も冷や水を被ったように冷えていった。我に返り、まず去来したのは深淵を臨むがごとき虚しさである。

 

 

 私はほうと大きなため息をひとつ、息苦しさとともに吐き出すと、苛立ちのままに荒らしてしまったアトリエを片づけていく。

 

 

 台無しにしたカンバスを足で蹴り捨て、折ってしまった筆を屑籠に放り投げて、床に落ちたパレットを手に取った。

 

 

 新しい真っ白なカンバスを画架に張って、私はじいっと見つめる。まるで白い画布に口が現れて今にも話しかけるように。

 

 

 やがて、私は何もなく、自分すらもいない世界に私の目玉だけが浮かんでいるような錯覚に入り込んだ。

 

 

 白く何もない世界に、不意にぽつんと小さな色が浮かぶ。それは勢いよく広がっていって、線や点をつないでいった。

 

 

 色はひとつだけではない。いくつもの色が浮かんで世界に無数の幾何学模様を乗せていく。

 

 

 そうして出来上がったのは人間とも怪物ともつかない、奇妙な造形の存在だった。

 

 

 彼は緩慢な動作でゆるりと蠢いて、私に視線を向ける。その顔にはただ空洞の眼窩だけがぽっかりと口を開いていた。

 

 

 その視線がまるで私を蔑んでいるように見えた。俺がこうなったのはお前のせいだ。怪物の声なき罵倒が私の胸を叩く。

 

 

 そんな目で私を見るな。そんな醜い目で私を見るな。お前はただの絵だ。その空いた眼窩に命は宿ってないのだ。お前をただの絵にしたのは、誰だ。

 

 

 気がつけば、私はまたカンバスを踏みつけていた。怪物は私の足の下でもののひとつも言わない。

 

 

 きれいなだけの絵では駄目だ。それでは写真と変わらない。私が求めるのは命を宿し、感情を持った絵画である。

 

 

 やはり、私では描けないのか。多くの人から賛美を受けた自分自身の才能が名のある芸術家たちの前に足元にも及ばないことを私は知っている。

 

 

 彼らの絵には命があった。私の絵にはない輝きがあった。私はそれが心より妬ましい。

 

 

 カンバスが私を呑み込んでいく。それは地獄の釜底のようだった。

 

 

芸術のために

 

 芸術とは芸術のそれだけのために存在すべきであろう。赤子のように純粋無垢な芸術こそが「真の芸術」である。

 

 

 そこには、人間世界のいかなる要素も混在してはならない。人間世界の汚濁は芸術という純真を汚し、低俗なものに変えてしまうからだ。

 

 

 だから、私は絵を描く時にあらゆる人間世界の事物を切り離してカンバスに向かう。そうしなければ、純真な絵が描けないからである。

 

 

 絵はただ芸術のために存在すべきだ。そこに思想や感情が含有されていてはならない。

 

 

 私の絵が命を宿していないのは、人間世界の汚濁が私が侵食しているからだ。私の絵はあまりにも不純である。

 

 

 人間世界にいる限り、私に満足のいく絵を描くことは不可能だ。良秀のように地獄の釜でも覗かない限り。

 

 

 幾多もの色が混じり合った混沌の世界に私は立っていた。私という存在が、絵の美しさを汚している。

 

 

 私は机の上に無造作に置かれていたペインティングナイフを掴むと、思いきりカンバスを引き裂いた。

 

 

 自分の呼吸が荒い。頭に血が上っているようだ。怒りのままに、私はアトリエを暴れまわった。

 

 

 ああ、そうだ。そうだ。私という存在がなければよいのだ。そうすれば、私の芸術はより完成されたものになる。

 

 

 私は歯を剥きだしにして口角を上げた。その通り。簡単なことだ。人間世界が汚濁であるならば、私の存在がある限り純真になることはないのだ。

 

 

 私はペインティングナイフを強く握った。絵を描こう。完全で純粋無垢な「真の芸術」を。

 

 

芸術のために全てを犠牲にした男を描く短編

 

 堀川の大殿様の代には後々までも語り草になるような出来事がずいぶんたくさんありました。しかし、大殿様もあの時ばかりは大層驚きになられたようでございます。

 

 

 

 あのような凄まじい見物に出会ったことはまたとありませんでした。そのお話をするには地獄変の屏風絵を描いた良秀という画師のことを申し上げておく必要がありましょう。

 

 

 良秀は絵筆をとりましては右に出るものはひとりもあるまいと申されたくらい、高名な絵師でございます。

 

 

 彼は背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪そうな老人で、人柄はいたって卑しい方でありました。

 

 

 しかし、大殿様の邸に小女房として上がっていた良秀の一人娘は、生みの親に似ても似つかない愛嬌のある娘でございました。

 

 

 良秀は一人娘の小女房を大層可愛がっておりました。娘の気の優しい、親思いの女でございましたが、あの男の子煩悩は決してそれにも劣りますまい。

 

 

 良秀は娘に婿を取らせてやる気など毛頭なく、大殿様にも再三娘を下げるよう要望しておりました。そのため、大殿様も良秀を冷ややかに見つめるようになったのです。

 

 

 かように娘のことから良秀の覚えが悪くなってきた時でございます。大殿様は良秀をお召しになって、地獄変の屏風絵を描くようにと言いつけました。

 

 

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