遊び人の夫を持つ妻『ヴィヨンの妻』太宰治


「乾杯」

 

 

 チン、と金属質の高い音が鳴る。隣に座る美女はグラスを持ったまま、私の顔を見て微笑んだ。

 

 

 私は透き通ったグラスを傾ける。黄色みがかったほろ苦い甘露が私の乾いた喉を潤した。

 

 

「さあ、君もたんと飲むといい。お代は私が払ってやるから」

 

 

 私は胸を張って、任せてくれと言わんばかりにとんと叩きながら言った。今日は大勝ちしたために、私の財布は潤沢であった。

 

 

「あら、本当にいいの? それなら、お言葉に甘えて」

 

 

 そう言って彼女はふふと蠱惑的に笑った。私はその美しい微笑みに思わず目を惹かれた。飲むたびに揺れる彼女の白い喉が私を誘っているかのようだった。

 

 

「それにしても、あなた、奥さんはいいの?」

 

 

 結婚、してるんでしょ? 彼女はそう言って、視線を落とした。その視線の先には指輪がはまった薬指が映っているのだろう。

 

 

「ああ、いいのさ。君の方が大事だからね」

 

 

「あら、悪い男」

 

 

 彼女は悪戯げにくすくすと笑った。私もにやりと笑って、空になった瓶を掲げてもう一本頼んだ。

 

 

 私が彼女の腰を抱くと、彼女も心得たもので、私の胸に頭をもたれてくる。彼女の香水の甘い香りが私の鼻孔をくすぐった。

 

 

 ふと、私のカバンがけたたましく騒いだ。携帯が電話の着信を訴えていた。携帯を開いて確かめると、電話は妻からのものだった。

 

 

 私は通話を受け取ることもなく、携帯の電源を落とした。途端に、携帯は静かになる。

 

 

 よかったの? 彼女が私に問うた。私は頷く。むしろ、私は甘いひと時を遮られて、妻に怒りを抱いてすらいた。

 

 

「あなた、まるでフランソワ・ヴィヨンみたいねえ」

 

 

「フランソワ・ヴィヨン?」

 

 

「だとすると、あなたの妻はさながら『ヴィヨンの妻』かしらね」

 

 

 彼女はそう言ってくすくすと笑った。私はもう妻の話題を終わらせたくて、彼女の口をふさぐ。それはとても甘い味がした。

 

 

身近にいる愛しさ

 

 私が家に帰ったのは翌朝のことだった。鉄の棒で叩かれているかのように痛む頭を抑えながら玄関の扉を開ける。

 

 

「おかえりなさい、あなた。食事はいりますか?」

 

 

 妻が微笑んで私を迎え入れた。昨日の電話への不満であるとか、連絡もなく朝帰りをした不平であるとか、そんなものはまったくなかった。

 

 

「いらん」

 

 

 私は一言だけ冷たく言い放つと、すぐに自分の部屋に上がろうとした。そうですか、と小さく呟く妻の声が聞こえた。

 

 

 ふと、私は思い立ち、立ち止まる。妻に向き直ると、普段とは違う私を、妻は怪訝そうに見つめていた。

 

 

 どうしてこいつはこんなにも不満を零さないのだ。愛しているならば、俺がしていることに文句を言ってしかるべきだろう。

 

 

 まさか、俺がいない間に他の男を連れ込んでいるのではないのか。俺の帰りが遅くなることを願っているのではないのか。

 

 

「お前、俺がいない間、何をしていた?」

 

 

 私の問いに、妻は戸惑ったようだった。

 

 

「何をって……いつものように洗濯をして、掃除をした後、夕食を用意しておりましたけど……」

 

 

「夕食! 俺が夜帰らなかったことの当てつけか!」

 

 

 私が胸中に起こる疑念のままに怒鳴ると、妻は怯えて身を縮こませた。彼女の細い肩は微かに震えているようだった。

 

 

 ひっぱたいてやろうとすら思ったが、彼女のその恐怖を見ると乱暴な感情はしぼみ、私は肩を怒らせたまま踵を返して自分の部屋に帰った。

 

 

 荒い呼吸も次第に落ち着いてきて、私はひとりしかいない自室に仰向けに寝転んだ。

 

 

 階下から微かにすすり泣く妻の声が聞こえてくる。疑心はあっという間に枯れ落ちて、代わりに罪悪感がじくじくと痛んだ。

 

 

 ああ、いっそ妻が俺を見限って捨ててくれたのなら。俺は彼女を幸せにできるのに。妻のすすり泣きが、静かに雫を零す私の胸を責め立てていた。

 

 

遊び人を夫に持った妻が明るく語る苦労話

 

 慌ただしく玄関を開ける音が聞こえて、私はその音で目をさましましたが、夫が帰宅したのだろうと、そのまま黙って寝ていました。

 

 

 その夜の夫は普段と違って、いやに優しく、坊やの熱などを尋ねていました。私はなんだか恐ろしい予感で、背筋が寒くなりました。

 

 

 なんとも返事のしようがなく、黙っていると、女性の細い声が玄関の方から聞こえました。

 

 

「こんな家もあるのに、泥棒を働くなんて、どうしたことです。あれを返してください。でなければ、私はこれから警察に訴えます」

 

 

 夫が彼女に対して帰れと怒鳴ると、横合いから別の男の声がしました。彼と夫はそのまま言い争いに発展します。

 

 

 私は起きて寝巻の上に羽織りを引っ掛けて、玄関に出ました。

 

 

 夫と言い争うのは、短い外套を着た五十過ぎの丸顔の男と四十前後の痩せて小さい身なりのきちんとした女性でした。

 

 

 私に挨拶を返す二人の隙をついて、夫が外に飛び出ようとします。男が夫の片腕を捕まえると、夫はジャックナイフを取り出しました。

 

 

 男が思わず身を引くと、夫はその隙に外へと飛び出して逃げていきました。私は追いかけようとする男を引き留めて、彼ら二人を部屋に上げました。

 

 

 荒涼とした部屋の風景に息を呑んでいる二人に座布団を勧めて挨拶を申した後、彼らの話を聞くことにしました。

 

 

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