「つまり、僕のとっておきのプリンを食べた犯人は君ということさ」
弟はまさしくどうだと言わんばかりの自慢げな表情で私を指差した。いらっとして思わずその頭をぱしんと叩くと、彼は痛いと情けない声で悲鳴を上げた。
「何をするんだ、ワトスン君!」
「誰がワトスン君だ。突然当て水量の域を出ない、わけのわからないことをぺらぺら言われた挙句に犯人扱いされたら叩くに決まっているだろう」
「ほう、言い逃れするつもりかね?」
「言い逃れも何も、私は食べてないよ。そもそも、プリンがあったことすら知らなかったし」
「その証拠はあるのかね?」
「今さっき部活から帰ってきたばかりで、冷蔵庫の中を見る暇もカバンを部屋に置く暇すらなくお前に捕まったからだが」
弟が皮肉を込めてそう言うと、彼はあからさまに視線をそらした。ようやく部活帰りで疲れた身体を引きずってようやく帰宅した私を余計な遊びに巻き込んだ罪悪感を覚えたらしい。
「はあ……それで? また何かに影響されたのか」
とはいえ、彼を見れば誰に影響を受けたか、なんて言うまでもない。頭に茶色いベレー帽、ベージュの毛布を肩にかけてストールのように巻いて、口にはおもちゃのパイプ。
「……シャーロック・ホームズの帽子はベレー帽じゃなくて鹿撃ち帽だぞ」
「マジか」
私は呆れ顔で彼を見つめたが、やがてはあと息を吐いて追及を諦めた。まあ、ごっこ遊びとしてはよく用意した方だろう。
「そんなことはどうでもいい! 事件だ、ワトスン君! 私のプリンが何者かに盗まれた!」
なるほど、私の配役はワトスン君か。最初からそう呼んできたところを見るに、本気で犯人が私だと思っていたわけではなく、私を助手役に当てるためだったのだろう。
「さあ! 犯人を捜し出そう! そして、不届き者に僕のレスリングを食らわせてやる!」
ホームズが会得していたのは日本武術やフェンシング、ボクシングであって、レスリングではないけど、まあ、いいか。私は諦観を滲ませて部屋に荷物を置くために自室に上がった。
犯人は誰だ?
ふむふむ……なんて、気難しそうに眉間にしわを寄せて、それらしく冷蔵庫の中身を覗く弟の姿を、私は冷淡に見つめていた。
彼の視線は私がついさっき入れたばかりのシュークリームに釘付けだ。今にも涎でも垂らしそうである。
訴えるように私にちらちらと視線を送る彼を冷たく睨むと、彼はしょぼんと肩を落として再び冷蔵庫の中へと向き直った。
シャーロック・ホームズは推理の天才である。しかし、私に言わせれば、観察の天才というべきだろう。
彼はしばしば名探偵として全てを見通すような、あまりにも超人的な推理が崇拝されている。
しかし私は、超人的推理というのは法水麟太郎のようにあまりにも現実離れした推理のことだと思っているのだ。
むしろ、ホームズの推理は対極であろう。導き出すロジックはどこまでも現実的であり、理論に忠実である。そこに超人などという非現実的な要素は存在しない。
彼を超人らしくたらしめているのは、その卓越した観察力と広範な知識である。それらを組み合わせることで、彼は稀代の名探偵となったのだ。
しかし、私はしばしば彼の偏った知識に想いを馳せざるを得ない。
推理に必要な能力以外を徹底的に削ぎ落している彼の存在は名探偵として完成されているが、人間としては欠陥である。
彼はまさに探偵小説のためだけに生まれたシステムだと言えるだろう。探偵小説界において理想とされるのも当然のことである。
さて、我が弟は冷蔵庫の中をくまなく探し、そんな探偵界のスーパースター様に憧れているわけだが。
ワトスン役に抜擢された私はプリンを盗んだ犯人を知っている。
犯人は弟自身である。つまり、事件なんてそもそも起こっていない。プリンは彼の腹の中にある。
弟は今朝にプリンを食べて、それをすっかり忘れているのだ。探偵が実は犯人であるなど、ヴァン・ダインの二十則に反しているが、まあ、現実はそんなものだろう。
弟の灰色の脳細胞はいつになったらその記憶を思い出すだろうか。ワトスン役として、内心で楽しみながら最後まで付き合う所存である。
名探偵の代名詞シャーロック・ホームズの華麗な推理劇
この八年の間に、私がメモした七十件あまりの事件ノートをめくってみると、平凡な事件などひとつもない。
しかし、さまざまな事件の中でも、ストーク・モーランのロイロット一門、サリ州の一家の事件ほど、奇怪なものはないだろう。
この事件はホームズと付き合い始めた頃、ベイカーストリートで彼と一緒に独身生活をしていた頃のことである。
1883年4月初旬、ある朝ふと目をさますと、普段は朝寝坊なはずのシャーロック・ホームズが私のベッドのそばに立っていた。
彼は家主であるミセス・ハドソンに起こされたらしい。依頼人として若い女性がホームズを訪ねてきたようなのだ。
身支度を終えて、ホームズとともに居間に降りると、黒い服を着こなしてヴェールで顔を隠した女性が窓際の椅子に腰かけていた。
ヴェールを取り払った彼女はひどく取り乱しており、不安そうな怯えた目をしていた。髪には白いものが混じり、やつれたような表情だった。
ホームズはいつもの推理で彼女が今朝早くから汽車に乗り、二輪馬車でここまで来たことを看破しつつ、彼女の話を聞いた。
彼女はヘレン・ストーナと名乗った。イギリスでも一番古いサクソン系の家柄で、ストーク・モーランのロイロット一族の最後のひとりとのことである。
彼女は古い屋敷で義父のロイロット博士とともに暮らしているという。
義父は医者として優秀な人物であり、人柄がよかったために開業してから上手くいっていたが、使用人との諍いから刑務所に入り、気難しい気性になったらしい。
母の財産は遺言によって義父の手元にあるが、もしも彼女や姉のジューリアが結婚したら彼女たちに毎年一定の金額が支払われることになっていた。
義父は次第に恐ろしい気性の人物となり、ジプシーと仲良くしてはインドの動物を持ち帰り、屋敷の中で飼うようになった。
姉のジューリアは二年前に亡くなったという。二年前のクリスマス、彼女は退役海軍少佐と出会い、婚約した。義父は反対しなかったらしい。
しかし、挙式まであと二週間という頃、恐ろしい事件が起こり、彼女は命を落としてしまったのだ。
姉が聞いたのはどこからと知れぬ真夜中の口笛。密室の姉の部屋から聞こえる悲鳴。そして、謎に満ちた姉の最期の言葉。
「ああ! ヘレン! 紐が! まだらの紐が!」
そして、姉の命を奪った運命の魔の手は、まさに今、ヘレンの首元にも迫っていたのだ。
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