私は扇風機の前にその身を横たえた。棒付きのアイスをシャリシャリかじりながら、畳の静かな香りを嗅ぐ。
週末はこの現代社会に広がる大砂漠の、唯一のオアシスである。ぎらぎらと照り付ける太陽の監視の視線はその場所にだけは届かない。
諸君に誤解なきように言うなれば、私は仕事が嫌いなわけではないのだ。私は仕事を貴賤で判断しない。今の仕事は自分に合っているとは言わずとも、まだ楽な部類であろう。
しかし、仕事場で私に指示を下すアルバイトのオッサンだけは我慢ならなかった。とっとと退職するか寿命が尽きないかと切に願っている次第である。
とはいえ、良いところもあるからこそ、本心から嫌えないのが一番の悪徳である。おかげで、今の職場の私は正社員にもかかわらず彼に従う使用人も同然だった。
仕事は嫌いではない。しかし、仕事場の人間は嫌いである。ひいては、仕事そのものが嫌いである。
だからこそ、週末は私が唯一心休まる時間であった。友人と会うのも良し、家に籠って好きなことをするのも良し、この時間だけは私は自由でいられる。
週末を余計な予定で潰すなど考えられない。そんなことをすれば、私はいつ休めばいいのだ。
アイスが溶け出してきている。ソーダ味が私の手を伝って畳の上に染みを作った。遠くにあるティッシュを取りに行くことすら億劫で、私はそのままアイスを食べきることにした。
誰に何を言われることもない。どれだけ自堕落な生活を送ろうとも、何者にも脅かされることはない。今の私は王様だ。このちっぽけな四畳半の王様である。
今日は何をしようか。やはり、録画して溜め込んでいたテレビを見ようか。あるいは、ネットサーフィンでも楽しもうか。いや、それよりも、もっと惰眠を貪ることにしよう。
私が目を閉じてうとうととまどろみながら今日の予定に想いを馳せていると、耳をつんざくような音が部屋の中にこだました。
私はびくっと弛緩していた身体を震わせる。緊張が私の身体を固くしていた。その音は私の携帯から鳴り響いている。
電話の相手はアルバイトのオッサンであった。彼が私の休日に電話をかけてくることは珍しいことではない。
身体から嫌な汗が出る。呼吸が苦しい。夏なのに身体が震えるのはエアコンや扇風機が効きすぎているのだろうか。
私は手を伸ばすこともできずに呆然と携帯を見つめる。オアシスが霧散し、現実が玄関の扉をノックする音がした。
我々は人間である前に怠け者である
私は鳴り響く携帯に背を向けて寝ころんだ。気付かなかったことにしよう。義務に背を向けて自分の休日を選んだのである。
しかし、さっきまで私を奪わんとしていた眠気は今やすっかり覚めてしまっている。寝ころんでもしばらくは睡魔が来そうにない。
仕方がないから、私は読みかけだった『聖なる怠け者の冒険』を手に取った。そのまま寝ころんだまま読み始める。
私はかねてより森見登美彦先生の作品が大好きであった。この本もその流れで購入を決めたものである。
とはいえ、私は買う以前にもこの本に関する話を聞いたことがあるのだ。その時からすでに、私はこの物語に魅了されていたのかもしれない。
それは何年か前の『王様のブランチ』である。森見登美彦先生がゲストとして出演していた。それは『聖なる怠け者の冒険』が発売されてすぐのことであった。
森見登美彦先生の作品は現実の京都の街並みに混じりこむ非現実のファンタジーが魅力であろう。
当然、この『聖なる怠け者の冒険』もまた、不可思議な京都の風景が描かれている。
私が共感を覚えるのは主人公の小和田君である。彼の怠けることへの徹底した精神は称賛に値する。
しかし、ぽんぽこ仮面も捨てがたい。彼の勤勉な姿勢と哀れな姿はどうにも庇護欲をそそられて、愛らしく感じられるのである。
彼らは正反対の人間のようでありながら、しかし、実のところは何も変わらない。
人は誰でも内なる怠け者を飼っている。その声に耳を傾けるか、傾けないかの違いである。
働き方の改革が叫ばれる今、我々はもう我慢しなくてもいいのではないだろうか。
私は内なる怠け者の声に従って、今一度惰眠を貪ることにするとしよう。貴君も共にどうだね?
筋金入りの怠け者の望まない冒険ファンタジー
むかしむかし。といっても、それほどむかしではない。
京都の街に怪人が現れた。虫食い穴の開いた旧制高校のマントに身を包み、かわいい狸のお面をつけていた。
かつて、京都府警は鳴りやまぬ一般市民からの通報に大いに困惑させられた。そんな怪しい怪人がいたならば、正当な処置と言えるだろう。
しかし、彼は悪人ではなかった。警察から追われ、一般市民からは怯えられながらも、彼は黙々と善行を続けていたのである。
次第に、彼の存在が話題となり、人気が高まり始めた。一般市民の敵から正義の味方へと昇華したのである。
彼は記者からの名前を問う質問に対して、こう答えた。
「『ぽんぽこ仮面』と呼ばれることを希望する」
かくしてぽんぽこ仮面の勇名は京都中に轟いた。しかし、そのインタビューを機に彼の人気は転落し始めたのだ。何故か。今となっては、ぽんぽこ仮面など珍しくもないからである。
浦本探偵事務所は室町通六角上ル烏帽子屋町の雑居ビル三階にあった。事務所のドアをノックしたのはアルパカそっくりの男である。
彼からされた依頼は「ぽんぽこ仮面の身元調査」であった。期限は祇園祭の山鉾巡行を翌日に控えた土曜日、すなわち今日である。
探偵が高瀬川沿いに歩いていくと、やがて立誠小学校が見えてきた。なにげなく校庭を覗いた探偵はぎょっとした。
校庭の真ん中に小学生用の椅子がぽつんと置かれていて、一人の青年が窮屈そうに縛られていたのである。
その青年の前に、奇怪な人物が立っていた。初夏だというのに真っ黒なマントに身を包み、狸の面をつけていた。
その時、携帯電話が鳴った。相手は週末だけ探偵事務所のアルバイトに来る助手であった。彼は小言を遮って立誠小学校の校庭に来てくれと伝えた。
「ぽんぽこ仮面はここにいる」
助手は何も言わずに電話を切った。
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