監視された国家で『R帝国』中村文則


 それは熱狂だった。まさしく、文字通りの。それは大きなうねりとなって、国ひとつを巨大な怪物のように呑み込んだかのように見えた。

 

 

 ラジオから聞こえる優勢を告げる声。本当だろうか。かつて、父が出会ったというアメリカ人は、身体が大きく、いかにも屈強そうに見えたという。

 

 

 私と共に聞かされた姉もまた、その話を知っているはずだった。アメリカ人は強いのだと。

 

 

 しかし、その姉は今、私の隣りで拳を振り上げて喜んでいる。日本帝国が優勢だというラジオからの声を、少しも疑わないかのように。

 

 

 いや、事実、疑っていないのだろう。むしろ、疑ってはいけない。今、この国は、そんな熱狂にあるのだ。

 

 

 政府から令が下されたのはつい先日のことだ。国のために節約をしよう。国民が一丸となって国を守ろう。

 

 

 ポスターには、竹槍のような武器を持った子どもや老人が、戦闘機に立ち向かうようなイラストが描かれていた。

 

 

 それを見て、母と姉は奮起し、節約を始めた。それまでも少なかった夕餉が、いっそうひもじくなる。しかし、文句のひとつも言えない。

 

 

 文句を言えば、非国民扱いされる。そんなことはわかっていた。アメリカよりも、その恐怖こそが私の口を閉ざした。

 

 

 母と姉に追従して声を上げる。心にも思っていない言葉を。日本国万歳。日本国万歳。

 

 

 ああ、こんな国、潰れてしまえばいいのに。思っていても、口には出せない。出したら最後、私は国に命を奪われるだろう。

 

 

 ポスターの彼らを見て、私は狂気にしか思えなかった。こいつらはバカなのか。

 

 

 国が一丸となって戦う? では、何のために兵士たちはいるというのか。彼らは私たちを守るためにいるのではないのか。

 

 

 日本の南から、こちらへ移住してきた男が、自慢げに言っていた。俺はこの国のために戦ったのだ、と。

 

 

「奴らが上陸してきたんだ。俺らは思い思いの武器を持って必死に戦った。その時間で、兵士たちが作戦を立てる時間を作れた。俺たちがお国のために戦ったんだ!」

 

 

 おお! すごい! 素晴らしい! 国民の鑑だ! 誰も彼らをバカだとは言わない。自慢げなその背を叩き、肩を抱く。

 

 

 男の故郷の者は皆、戦って亡くなったという。栄誉だ、なんて。そんなもののどこに栄誉なんてものがあるのか。

 

 

 決して勝てない戦い。けれど、誰もそれを口には出せない。口には出せず、ただ狂気の中へと身を投じていく。

 

 

 国は人のためにある。それなのに、今やそれが入れ替わっている。人々が、国のために命を散らしていく。

 

 

 得のするのは、その陰にいる連中だ。この戦いの旨味だけを、ひたすらに貪っている。私たちはその犠牲になっているに過ぎない。

 

 

 ああ、頼む。頼むから。誰でもいい。誰か、この国から私たちを救ってくれ。私は内心でそう思いながら、姉と母に続いて『日本国万歳!』と声の限りに叫んだ。

 

 

ああ、素晴らしき大R帝国

 

 朝、目が覚めると戦争が始まっていた。画面を操作し、矢崎はニュースの続きを見る。隣のB国の核兵器発射準備。察したこの大R帝国が、空爆で阻止していた。

 

 

 ベッドから気だるく起き上がり、リビングに向かう。つい二か月前にも、戦争があった気がする。壁に国営放送を映し出す。痩せた男性アナウンサーが力なくしゃべり続けている。

 

 

 ――繰り返します。我が国は午前4時23分、B国に対し、宣戦布告し、この度の空爆で、B国で十数人の負傷者と二人の死者が出た模様です。

 

 

 気の毒に、と矢崎は思う。あんな独裁政権の下にいたせいで、死ぬことになるなんて。

 

 

 ネット掲示板に無数に書き込まれた言葉を見ながら、矢崎は次第に頷き始める。これらは”党”の『ボランティア・サポーター』が書き込んでいると知っていた。でもすっと言葉が入ってくる。

 

 

 敵国の死傷者を隠さず公表する、この大R帝国の透明性はB国にも望めない。

 

 ニュース画面が不意に切り替わる。上質なグレーのスーツを着た五十代の男。R帝国の与党、国家党の広報だった。国家党は略され、”党”と呼ばれている。

 

 

 ”党”の広報が涙ぐむ。矢崎はその涙を、そのまま信じているわけではなかった。しかし涙を実際に見ると感情が揺さぶられる。

 

 

 乾いた風が、気だるく矢崎の頬を撫でていく。駅に着いた。やってきた始発便の電車は空いていて、この時間が静かだった。

 

 

 ”抵抗”がどういう意味か矢崎は知らない。そんな言葉は、このR帝国内の電子辞書にもない。

 

 

 まれに話題に上ることもある。何か大きな事件が昔、このR帝国内で起きたという噂。それが何か矢崎は知らない。

 

 

 街には死角なく音声収集型防犯カメラがあるから、大したことなどできるわけがない。ただの噂だろう、と矢崎は思う。

 

 

 突然地面が揺れた。地震。悲鳴が上がる。矢崎はバランスを崩すが、咄嗟に柵に手をつき身体を支える。揺れは大きかったがすぐ終わった。

 

 

 矢崎はさっき柵をつかんだ違和感でなんとなく手を服で拭い、急ぎ足で会社のビルに入る。

 

 

 また激しい揺れ。社内で悲鳴が上がる。しかしこのビルに影響はない。免震対策がなされている。

 

 

 他の建物は大丈夫だろうか、と矢崎は理由をつけ目を反らす。窓からビルの外を眺める。

 

 

 地面にいる人々が、立ったまま何かを見上げている。四角い巨大な鉄の塊が揺れている。長い六つの足のようなものでふらふら揺れている。

 

 

 出鱈目につけられたような四本の鉄の腕。それらが不意に激しく振り回され、そのひとつが近くのビルを偶然のように叩く。そのビルは奇妙に折れ曲がりながら崩れようとする。

 

 

 Y宗国の兵器YP‐D。空にもY宗国の無人戦闘機。矢崎はビルの窓越しに茫然と外を見る。敵のB国の兵器ですらない。一斉に戦闘機の下部が開く。空から無数の黒の粒。

 

 

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