子どもの頃、お気に入りのぬいぐるみがあった。かわいいクマのぬいぐるみ。私は名前を付けて、いつも抱きしめていた。
けれど、一度だけ。そのぬいぐるみに穴が開いたことがあった。中から白い綿が溢れてくるのを、私は茫然と見つめていた。
母が見かねて縫って穴を塞いでくれたけれど、それ以来、私はそのぬいぐるみを抱きしめることはなかった。
あのぬいぐるみ、なんて名前を付けていただろう。私はその本を読んで、数年ぶりにそのぬいぐるみのことを思い出した。
私は彼のことを友だちだと思っていた。だからなのだろう。彼の腹に詰められた綿を見た時、私は自分の友だちが、綿と布の塊でしかないことを知った。
どんなに美しいもの、どんなにかわいいものでも、ほら、腹をカッターナイフで裂いてみれば、正体なんてこんなもの。
真梨幸子先生の『殺人鬼フジコの衝動』は、まさに、フジコという美しい殺人鬼の女の内側に詰まったおがくずを描いている。
十五人以上の人間の命を奪ったフジコ。物語は彼女の人生を綴った記録小説として語られている。
悲惨な学生生活を送ってきたフジコは、ある時、凄惨な事件に巻き込まれて家族を失い、唯一の生存者となる。
事件をきっかけに大人の同情を集めるようになった彼女は、幸せな人生を送ることを目指した。
友人を得て、恋人とも出会い、彼女の人生は良くなったように思えた。けれど、再びその幸せに陰りが見え始める。
不幸な少女だったフジコ。彼女がアイドルよりも有名な殺人鬼となるまでの人生を辿った、一冊の小説。そして、その結末に待ち受ける驚愕の真相。
読んでいると、思わず顔をしかめるような、そんな作品だった。両親からの虐待。クラスメイトからの残酷ないじめ。彼女の人生に、暖かな日差しはどこにもない。
フジコ。醜いおがくず人形。けれど、私は彼女に同情を覚える。人形だって、何もおがくずを詰められたいわけではないだろうに。
ニュースで報道される犯罪者は、当然のように非難される。誰もが被害者の境遇を想って涙し、まったく関係ないのに犯人を責める。
けれど、その犯人にも中身は詰まっているはずなのだ。犯罪を犯すまでの、軌跡が。ニュースは真実を何も教えてくれない。
人間、どんな聖人君子だって、腹を裂けばただの綿が出てくる。どんなにきれいな人でも、中身は何も変わらない。
私が何よりも怖ろしいと思うのは、自分の破綻した論理で罪を繰り返すフジコよりも、彼女を殺人鬼に育て上げた世の中の方だった。
彼女の心を殺した残酷ないじめは、罪にはならない。結局、罪なんて法律程度で計れるようなものではないのだと思う。
殺人鬼フジコは世間が作り上げた。ほんの少しでも、彼女の理解者がいてくれたならばと思うと、本当に哀しい。
『蝋人形、おがくず人形』。フジコの生涯を記した作中の小説につけられたタイトルは、彼女自身のことを表しているという。
けれど、私にしてみれば、どいつもこいつも、世の中はおがくずの詰まった人形ばかりだ。もちろん、私も含めて。
ぬいぐるみに、カッターナイフを突き立てる。かわいかった顔から綿が溢れた。
子どもの頃からずっと一緒にいた、私の友だち。彼らはただの、布と綿だ。でも、それらと人間の、何が違うというのだろう。
『殺人鬼フジコの衝動』はイヤミスの代表作と言われている。読むと、嫌な気分にあるから。
きっと、それは、殺人鬼という行き着くところまで行き着いたフジコという女性の人生の中に、彼女を怖れ、あるいは嗤う、自分自身の姿を見るからではないだろうか。
私は、ふと思い立って、自分の指先をカッターナイフで切ってみた。おがくずが零れ落ちていくのを見て、私は「ああ、やっぱり」と呟いた。
蝋人形、おがくず人形
この小説は、ある女の一生を描いたものである。女は「殺人鬼フジコ」と呼ばれた。
当時、フジコはどんなアイドルよりも有名で、特に小学生の間では知らないものはいなかった。
当時、T新聞に載った写真。学生服姿だ。髪は肩までのストレート、前髪が軽くウエーブがつけられ、決して美人ではないが清潔感溢れる健康的な容姿だ。
指名手配用の似顔絵はまるで顔が違っていた。美人だが、恐ろしい、鬼の形相である。
さて、この小説を書いたのは、ある女性だ。彼女がこれを書き上げたのは、三年前のことである。彼女にとって、最初で最後の小説だ。
私は彼女の遺稿を前にして途方に暮れた。このスキャンダラスな小説をどうすればいいのか。
この「はしがき」は、もう五回は書き直している。実際に起きた事件を再現した記録小説であることを、ここで白状しておく。
さて、タイトルについても少し説明しておこう。この小説は、はじめ「蝋人形、おがくず人形」というタイトルがついていた。
世界中からちやほやされる可愛いアイドル、が、実は作られた蝋人形であり、中味はおがくずが詰められている、という悪意が込められていた。
それでは、私はここでいったん、ペンを置きたいと思う。読者の皆さんが、この小説を途中で放り出すことなく、「あとがき」まで辿り着かれることを心から祈りながら。
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