「真実を告げよ。貴様は、我が国の至宝である伊能図を国外に持ち出そうとした。間違いはないか」
奉行の厳格な声が響く。私はかすかに顔を上げて、彼の目を見た。感情の見えない冷たい瞳が、私を貫く。私は静かに答えた。
「はい。間違いございません」
ざわめきがこだまする。責めるような視線。信じられないとでもいうような視線。さまざまである。
「なぜ伊能図を持ち出した。アレを国外に持ち出すことが禁じられていることは、周知の事実のはず」
よもや。奉行が続ける。その目が、まるで忌々しいものを見るかのように私を見下ろす。それは、この国に来て随分と慣れた、異質なものを見る時の目だ。
「伊能図を使い、我が国の侵略の足掛けとするつもりだったとでも言うつもりでは、あるまいな」
ざわめきはひどくなる。しかし、言いがかりもいいところだ。我が祖国が本気で手に入れようとしたならば、日本なんぞとっくに我が祖国のものとなっている。
閉じられた中で熟された日本の文化は実に興味深く、得るものも多い。仲良くしておいて損はなかった。
「そのようなつもりなど、毛頭ございません」
「ではなぜ、伊能図を持ち出したのか。答えよ」
「美しいからです」
私の言葉に、一瞬、奉行は言葉に詰まった。だが、それは紛れもなく私の本心である。
日本は美しい。だが、中でも私が心惹かれたのは、「伊能図」と呼ばれるものである。
それは、かつて伊能忠敬という人物が書いたものであるらしい。この日本という国の土地全てを記した、いわば国の地図である。
私は瞬く間に、その美しさに魅了された。この国は、これほどまでに美しい形をしているのか。思わず感嘆の息が漏れるほどである。
流麗で細長い体躯は、さながら優雅に泳ぐ魚のよう。かつて日本が「黄金の国」と呼ばれたのも頷けるかもしれない。
伊能図作成の軌跡を聞かされた私は、心底から驚いた。なんと、それは測量によって求められたものではなく、実際に日本全土を旅し、測量をしたのだという。
まったく、なんという男だろう。その伊能忠敬という御仁。生きていたならば、ぜひとも会いたかったものだ。
彼は日本全国を自らの脚で歩き、測量をしていった。それはまさしく日本のサムライらしい根気と、諦めない不屈の心があってのみ成せる所業であろう。
「お奉行様よ」
「なんだ」
「持ち出そうとしたのも事実。だが、美しいこの国を侵略するなど、疑いをかけられることすらも不本意である。改めてもらいたい」
奉行がどこか不愉快そうに顔を歪めた。罪人に言い返されたのが癪なのだろう。
「私が地図を持ち出した理由。それは、この国があまりにも、美しいからだ」
美しい絵画をもらおうとした。私にとってはただそれだけのもの。王や貴族が机上でする盤上ゲームなどに興味はないし、そもそも他のオランダ人にこの「美」は理解できまい。
「盗まずには、いられなかった」
このシーボルトの名が不名誉な形となっても、この国の歴史に刻まれるのならば、それもまた、本望かもしれない。
測量の旅路
寛政十二年閏四月十九日。江戸時代が始まって、二百年近くが経っている。将軍は第十一代の家斉、子沢山で有名な将軍だ。
その幕府から許可を得て、伊能忠敬は江戸を出発しようとしていた。蝦夷地への測量の旅である。
この年、忠敬は数えで五十六歳になる。世間を離れて、のんびりと暮らしていてもいい年齢である。
しかし、忠敬は当主の地位を長男に譲ってからの第二の人生を、天文と測量の学問に捧げていた。この旅は、その成果を見せる絶好の機会だ。
忠敬の一行は、次男の秀蔵を含めた弟子が三人、それに従者が二人で、合わせて六人になる。道中ではさらに荷物持ちなどの雑用係が加わる予定だ。
最初の目的地は深川の富岡八幡宮である。近所の神社で、旅の安全を祈願するのだ。忠敬はずんずんと歩いて鳥居をくぐり、本殿で手を合わせた。
「天候に恵まれて、測量が上手くいきますように。全員が無事に江戸に戻れますように」
もとより、人事は尽くすつもりだ。そこから先は運になる。忠敬は続いて、浅草の天文方に向かった。師匠の高橋至時に出立の挨拶をするためだ。
高橋至時は屋敷の門の前で待っていた。十九歳年上の弟子、忠敬を見つけて、笑みを浮かべる。
「これからの一歩は、学問の進歩につながる。心して歩めよ」
忘れ物はないか。はい、と答える忠敬の背後で、秀蔵が口を押さえている。笑いをこらえているようだ。忠敬は忘れ物が多いのが玉にきずである。
「とにかく、無事にな。何かあったら、文をよこすように」
至時は道に出て一行を見送った。忠敬隊に大きな期待はかけられない。成果を上げるには、人員も装備も時間も不足しているからだ。
無事に測量結果を持ち帰ってくれればよい。その積み重ねで、科学は前進するのだ。
本当なら、自分が行きたいが、肺病を患っていて、長旅に耐えられそうにない。忠敬を羨ましく思う至時であった。
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