文学評論と街歩きエッセイがひとつに『「街小説」読みくらべ』都甲幸治


 小説の中には、ひとつの世界が描かれている。紙に書かれた文字は頭の中で石畳と建物を紡ぎ出し、僕自身をその世界の中に誘うのだ。

 

 

 気軽に旅行にも行くことのできない今、物語の中にあるその街並みは、僕に癒しと開放感を与えてくれる。

 

 

 物語の中で腕を伸ばして動き出す主人公やヒロインや悪党たちを眺めている僕は、その場所では誰よりも自由になれるのだ。どこにでも行けるし、誰の心も手に取るようにわかる。

 

 

 『夜は短し歩けよ乙女』では京都。煌びやかな街路と、それに反するかのようにどこか不気味な裏路地。楽しげで、それでいてどこか恐ろしいその光景に、僕は目を奪われていた。

 

 

 『ビブリア古書堂の事件手帖』のページを開けば、そこは鎌倉だ。古式豊かな歴史の眠る街。素朴で温かみのある木造の門が、訪ねた僕を迎え入れてくれる。

 

 

 札幌のススキノ。夜の空を彩る輝かしい繁華街。立ち並ぶ店のどこかに、グラスを傾ける探偵がいるのかもしれない。

 

 

 海を越えてニューヨークの街。当てもなくさまよう彼は、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンだ。その後ろ姿を、僕は追いかけていく。

 

 

 ロンドンの街を訪ねれば、思わず空を見上げてしまう。傘で降りてくる『メアリー・ポピンズ』がどこかにいるのではないか、と。

 

 

 彼らはフィクションの、実在しない人物なのだと、友人は言った。その都市だって、本物じゃない、偽物なんだよ、と。

 

 

 その通りだ。けれど、その物語の中にいる間は、彼らは間違いなく存在していて、その場所で生きているのだ。そのことを、僕だけが知っている。

 

 

 都甲幸治先生の『「街小説」読みくらべ』では、「小説には街そのものが詰まっている」と書かれていた。

 

 

 そうなのだ。あの片手で持てる小さな文庫本ひとつの中に、巨大な街そのものがあるのだ。

 

 

 そこでは、主人公も、ヒロインも、道行く雑踏も、輝くネオンも、車の走る音も、立ち並ぶ民家も、現実と同じように存在している。

 

 

 『「街小説」読みくらべ』では、金沢やロサンゼルス、吉祥寺や本郷、ニューヨークなどについて綴られていた。

 

 

 きっと、本から感じる街は、その人によって違う。その人にはその人自身の「街」があって、自分の知る街と合わさって肉付けされて、より鮮明な輪郭を形作っていく。

 

 

 僕はその街を歩くのが大好きだった。物語に登場して活躍している彼らと同じ世界に、その瞬間だけ、僕は存在することができる。

 

 

 時間も、場所も関係ない。僕は自由に、思うがままに、その街を歩き回ることができるのだ。

 

 

 だから、僕は小説が好きだ。そこには旅行ガイドよりもより鮮明に、町の魅力についてわかりやすく書かれているのだから。

 

 

 感染症が収まって、自由に旅行ができるようになったら、僕は京都に行くと決めていた。

 

 

 その風土特有の匂い、雰囲気、そういったものを、物語で読んで想像し、現実で味わう。

 

 

 そうすると、ただその場所を訪れるよりも深く、その場所に溶け込むことができるような気がした。

 

 

 物語の中では安全だ。感染症が移ることもない。お金もかからないし、時間もほんの少ししか、かからない。

 

 

 本は、青春18きっぷよりも遥か遠くまで、すぐに僕を連れていってくれる魔法のチケットだった。さて、次はどこへ向かおうか。

 

 

書を読んで、旅をしよう

 

 街は生きている。たとえば金沢という文字を見ただけで、僕が高校時代を過ごしたあの場所が不意によみがえってくる。

 

 

 本書では僕が時を過ごしてきた八つの街を巡った。金沢、ロサンゼルス、吉祥寺、福岡、国立、本郷、早稲田、ニューヨーク。

 

 

 街の名前を目にした途端、僕の意識はそこにいた時代に飛ぶ。気付けば街を歩いている。

 

 

 それだけではない。ひとつの街に三冊ずつ、そこを舞台とした小説を選んで読んでいった。小説には街そのものが詰まっていると気付いた。

 

 

 自分の体験に、他の三人の感じた街が混ざる。同じ街なのに、時代も性別も個性も違う人々が受け取る街は大きく違っていて、でもやっぱり同じだ。

 

 

 そしてこうしたものこそ、今の自分を確実に作り上げているのだ、と気づく。こうした作業こそ日本文学の伝統に則していることに気付いた。

 

 

 この本を書きながら、かつてバフチンが語った小説の原理を僕も我がこととして経験できた。そして文学の読み方が少しだけ変わった、と思う。

 

 

 だがそこに無償の贈与があったことは確かな事実だ。文学はそのことの確かな記録で、だからこそ僕らは、ただひたすら与えることが正しいのだとわかる。

 

 

 この本もまた、そうした贈り物のリストだ。だからあなたはこのプレゼントをためらうことなく受け取ってほしい。

 

 

 そして小説を手に取りながら、自分にとって大切な街を再び訪れてほしい。そこには、何年もあなたが来るのを待ちわびた人々がいるだろう。そして温かさを分け与えてくれるだろう。

 

 

「街小説」読みくらべ

価格:2,420円
(2021/1/18 00:01時点)
感想(0件)

 

関連

 

愛すべき町の本屋さん『本屋図鑑』得地直美

 

 町にある小さな本屋には、大きな書店やデパートにない魅力がある。小さくて、素朴であるからこその温かみ。立ち並ぶ本棚を眺めながら、静かな時間を、あなたも過ごしてみませんか。

 

 

 町本屋が好きな貴方様におすすめの作品でございます。

 

 

本屋図鑑[本/雑誌] (単行本・ムック) / 得地直美/絵 本屋図鑑編集部/文

価格:1,870円
(2021/1/18 00:06時点)
感想(0件)

 

出会いが導く女のひとり旅『ガンジス河でバタフライ』たかのてるこ

 

 海外で始まる女のひとり旅。そこには魅力的な出会いが広がっていた。危険だなんて物怖じしていたら手に入らなかった大切なもの。たかのてるこ先生が、自分の海外の旅の経験をまとめたエッセイ。

 

 

 旅行がしたい貴方様におすすめの作品でございます。

 

 

ガンジス河でバタフライ (幻冬舎文庫) [ たかのてるこ ]

価格:712円
(2021/1/18 00:09時点)
感想(14件)