その絵を初めて見た時、どことなく不安な気持ちになったことを、今でも覚えている。横目で合図をする女と、まさに今、いかさまをしようとしている伊達男、そして何も知らない無垢な少年。
その絵画は、ラ・トゥールの『いかさま師』という作品だった、どこかの店だろうか、少年と女、伊達男がトランプをしており、給仕の女が飲み物を手に持っている。
だが、女と伊達男、給仕の女はグルだ。彼らは少年にいかさまを仕掛けるために、目で合図をしている。横目で送られる合図に、気付かないのは自分のカードをひたすらに見つめる少年だけ。
なぜ、そんなにも不安を感じたのか、その理由はわからなかった。光のない、真っ暗な背景のせいだろうか。合図をしている女の、その目の寄った表情のせいだろうか。
いや、きっと違う。この後、少年の身に起こるであろう悲劇の未来。欲望に身を駆られた残酷で老獪な大人たちの策謀。
そして何より、自分自身がいつか、その少年の椅子に座るのではないかという不安、それこそが、私の胸中を襲った不穏の正体だった。
しかし、私はそれ以来、その絵を見ることはなかった。とある一冊の本と、出会うまでは。
その本は、そのまま『怖い絵』という。一時、話題になっていたのを覚えているが、当時は結局読まなかった。だからこそ、図書館で見かけた時、私は心底驚いたのである。
『怖い絵』の表紙には、あの『いかさま師』の姿があったのだ。目で合図をする女が、大きく載せられている。その面妖な視線が、私の沈んでいた記憶を再び水面に浮かべたのである。
しかし、思わずその本を手に取ってページをめくってみた私は、その『いかさま師』の不気味さが、まだほんの序の口であることを知った。
ベーコンの『ベラスケス〈教皇インノケンティウス十世像〉による習作』やゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』のような、ひと目見てわかる怖ろしい絵だけではない。
ホガースの『グラハム家の子どもたち』やドガの『エトワール、または舞台の踊り子』のように、一見美しかったり平和だったりする絵画ですらも、作品の背景やひっそりと隠されたモチーフによって背筋が凍るようなおぞましい絵に見えるのだ。
絵は見る人によって、あるいは作者の意図によって姿を変える。美しい風景であったかと思えば、気味の悪い恐ろしさを内包しているものであったり、はたまた皮肉や嘲笑が込められていたり。
私たちが見ているのは、ただのカンバスに描かれた絵の具に過ぎない。そこに形を見て、意味を見るのは人の眼であり、心だ。
『怖い絵』を読んで、私はそのことを改めて思い出したのである。そして、この本で紹介されている絵画は、どれも「恐怖」というつながりを持っている。
中野京子先生がこの本を書こうと思ったきっかけは、市中引き回しの刑にあっているマリー・アントワネットを描いたダウィッドのスケッチだったという。
先生はそのスケッチの中に、絵の作者であるダウィッドの込められた悪意を感じ取った。先生は絵そのものではなく、その中に込められた人の情をこそ恐ろしく思ったのだ。
ダウィッドが本当に悪意を込めてそのスケッチを描いたのか。あるいは、彼が見たありのままの光景を極めて忠実に描いたというだけかもしれない。
私がこの本を読んで思うのは、絵を歪ませるのは作者だけではない、ということだ。鑑賞者がそこに悪意を感じ取れば、その絵は途端に恐ろしいものに変貌する。
絵画は時として、人の心を、あるいは人生を動かすほどの力を持つ。けれど、それは絵画そのものの力ではない。絵画の絵の具に混ぜられた、人間の業がその目に映る世界を変えるのだ。
魅力的な恐怖の画廊
怖い絵について書こうと思ったきっかけのひとつは、マリー・アントワネットだった。正確に言えば、アントワネットを描いたダヴィッドのスケッチだった。
この絵が衝撃的なのは、栄枯盛衰の落差を突き付けられるからというより、むしろ描き手の悪意をひりひり感じさせられるからだろう。
本当に彼女がこんな顔つきだったかどうか、今となってはいったい誰にわかるだろう。ダヴィットの悪意に歪んだ眼に、こう見えたというだけかもしれない。つくづく怖いことだと思った。
そう考えると、これまで恐ろしいとも捉えられていなかった作品の中に、実は慄然とする秘密が隠されている、といった例が少なくないことに思い至った。
恐怖の源、それは何より「死」である。肉体の死ばかりでなく、精神の死ともいうべき「狂気」である。
ある種の「悪」が燦然たる魅力を放つように、恐怖にも抗いがたい吸引力があって、恐怖を楽しみたい、というどうしようもない欲求を持ってしまう。
そうしたさまざまの恐怖をはらんで、魅惑的な「怖い絵」はある。本書は、もちろん見る者を戦慄させるのが目的の真に怖い絵も扱っている。
だが特に伝えたかったのは、これまで恐怖とまったく無縁だと思われていた作品が、思いもよらない怖さを忍ばせているという驚きと知的興奮である。
一枚の絵が語る怖い物語を、どうぞ楽しんでくださいますよう。
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