生きるべきか、死ぬべきか。行き交う表情のない人々をぼんやりと眺めながら、俺はそんなことを考えていた。言葉も発さず、慌ただしく行き交う彼らは、さながら一頭の怪物のよう。
食うにも困る状況にまで堕ちたのは初めてのことだった。それまでは平穏だった家族はあっという間に崩壊し、今や生きているかもわからない。
だが、死ぬのは怖い。俺は何が何でも生きるつもりだった。芥川の『羅生門』でも言っていたではないか。食っていくには仕方のないことなのだ、と。
とはいえ、空腹はまだこの程度であれば耐えられる。いざ、と決めたはいいものの、実行するともなれば踏ん切りがつかず、俺は未だに迷い続け、結論を下さずにいた。それが、俺を善の道に留める唯一の道だった。
要するに、結論を出すことが、俺は恐ろしいのだ。今まで自分が過ごしてきた光の当たる場所から、陰の奥へと身を潜める生き方へと、幼少時からタブーだと教え込まれたことを自らの意思で行うことが、俺は恐ろしくて仕方がない。
その恐怖が、俺の迷いを長引かせていた。俺はひとまず、心を休ませようと思い、目的地を定めないまま、立ち上がってふらふらと歩き出す。
辿り着いたのは、一軒の小さな本屋である。シャッター商店街の片隅にぽつんと突っ立っていて、客は見るからに誰もいない。俺は導かれるかのように、その店に入った。
レジスターの前に座っている老人が、ちらりとこちらを見て、それからすぐに視線を戻した。俺は彼の視線の届かない奥の書架の前に立ち、少し色褪せた本の背表紙を目で追いかける。
ふと、一冊の本が目に留まった。ユーゴーの『レ・ミゼラブル』である。ずっと前に、人気の俳優が演じた映画が放映されたことで、一時テレビでそのタイトルをよく聞いていた作品だ。
よく考えてみれば、タイトルは知っているものの、読んだことはない。ここはひとつ、読んでみるか、と、俺はその本を手に取った。立ち読みだけなら、金はかかるまい。
『レ・ミゼラブル』はひとりの男、ジャン・ヴァルジャンの生涯を追いかけるという作品である。家族のために一片のパンを盗み出すという罪を犯した彼は、十九年間もの間を牢獄で過ごすことになった。
それだけの時間をかけて、社会への憎悪を胸に抱き続けた彼は、ようやく釈放される。だが、彼の罪を証明する通行証のせいで、社会は、彼に対して冷たく当たった。
そんな彼に救いの手を差し伸べたのは、ミリエル司教である。彼はジャンを家に招き入れ、温かい食事を提供し、良質な寝床を用意した。
だが、ジャンは彼が寝ている隙に、彼の銀の食器を盗んで逃亡する。憲兵に捕らえられ、司教の前に引きずり出されたジャンに、ミリエル司教は驚きの行動を見せた。
「その食器は君にあげたものだ」彼はジャンに食器を譲ったとして、彼の罪を許したのだ。それどころか、二つの銀の燭台を彼の手に渡した。「これを正直な人間になるために使いなさい」
本を閉じる。外を見ると、すでに日が落ちていた。だが、俺は既に、この本に魅せられていた。先を読みたくてしかたがない。
見れば、老人はレジに座り、船をこいでいる。忍べば、気付かれずに出ていくこともできるだろう。この本を手に持ったまま。
俺は立ち上がり、老人の目の前に本の代金を置いて、店を後にした。なけなしの金だ。もう今日の食事を買う金すらない。
だが、この物語を読んでしまった俺には、本を盗むことなどできなかった。いや、それどころか、俺をずっと悩ませていた迷いは、一方へと振り切れてしまっていた。
ジャン・ヴァルジャンの生涯には、常に消えない「罪人」という十字架が背負わされていた。彼がどれだけ善行をしても、その十字架は彼の現在を曇らせてしまう。
それでも、彼は最後まで「善」を貫いた。そんな彼の行動は、二人の若者を助ける結果となった。それは、とても偉大なことだと、俺は思う。
元いたところに戻り、俺は本を開いた。状況はさっきまでよりも絶望的だ。だが、俺の心は晴れ渡っていた。最後までこの物語が読めたのならば、俺の人生にもはや悔いはない。
ジャン・ヴァルジャンという男
一七八九年七月バスティーユ牢獄の破壊にその端緒を開いたフランス大革命は、有史以来人類のなしたもっとも大きな歩みのひとつであった。
その動揺せる世潮の中を、ひとりの男が、惨めなるかつ偉大なるひとりの男が、進んでゆく。彼の名をジャン・ヴァルジャンという。
すべてを失った後、彼は死と微光との前に立つ。かくしてパリーの墓地の片隅の叢の中に、一基の無銘の石碑が建った。
何故に無銘であったか? それは実に「永劫の社会的処罰」を受けた者の墓碑であったからである。一度深淵の底に沈んだ彼は、再び水面に上がることは、いかなる善行をもってしてもこの世においてはできなかったのである。
いや不幸なのは彼のみではなかった。種々の原因のもとに「社会的窒息」を遂げた多くの者がそこにはいた。ただこの世において救われた者は、マリユスとコゼットのみであった。
さはあれ、それらももはやひとつの泡沫にすぎなかったのである。大革命とナポレオンとの二つの峰を有する世潮にすべてのものを押し流し、民衆はその無解決の流れのうちに喘いでいた。
ゆえに、ワーテルローの戦いと、王政復古と、一八三二年の暴動と、社会の最下層と、パリーの市街の下の下水道とが、詳細に述べられなければならなかったのである。以上がこの物語のおおよその内容である。
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