中国には、かつて「武」を極めた武人たちがいたという。真実か嘘か、彼らは時として空を蹴って何里もの距離を駆け、水の上を沈まぬまま走ることができたのだ。
だが、彼らはその力とともに、とうとう日の目を見ることはなかった。なぜか。戦の世が終わったことで、彼らの系譜は途絶えたのだ。
それでも、思わずにはいられない。もしも、彼らの技が現代にも引き継がれていたのだとしたら、我々の常識はもはや大きく変貌するのではなかろうか、と。
彼らは自らを「武」に生きる者として、戦いの中で命を落としていった。どういうわけか、物語の武人はことごとく、純粋に正々堂々と、武による決着をつけたがる。
私は思わずにはいられない。なぜ強き者との戦いを欲するのか。それだけの力があれば、どんなことでもできるだろうに。そう、たとえそれが、犯罪であったとしても。
ここに『老虎残夢』という物語がある。中国の、いわゆる武俠小説とでも言おうか。あまり馴染みがなかろうが、中国においては古来から伝わる小説のジャンルのひとつである。
登場するのは何らかの達人ばかりだ。水上を駆け、毒をも効かず、武術に優れ、雪に足跡すら残さない。だが、彼らとて、命を落とさないわけではない。
優れた武俠のひとり、泰隆。彼の秘中の奥義を授けるとして、その奥義に足る三人の達人が集められた。
しかし、翌日、泰隆は遺体となって発見される。彼を手にかけたのは、いったい誰か。犯人は、集められた三人の達人、そして、彼の娘の中の誰かである。
泰隆の弟子、紫苑は、敬愛する師匠の無念を晴らすため、そして道ならぬ恋の相手である師の娘を守るために、犯人を暴くことに尽力する。
しかし、師の最期には、思いもよらない秘密が隠されていた。秘中の奥義とは、果たして何か。いったい誰が犯人なのか。無二の達人である師を手にかけたのは、果たして。
読んだ瞬間、私は「これだ」と感じた。戦いのうちではない。計略のうちに生きる武人。私が見たかったのは、そんな姿だったのだ。
だが、ミステリであると同時に、紛れもなく、この物語は武俠小説でもある。だからだろうか、ミステリ小説の静かな緊張感もありつつ、達人たちの拳による躍動感溢れる一冊であった。
武人は戦場にて生き、戦場にて果てる。かつての武人たちはそう誓っていたのだろう。だが、現代から見れば、それは狭量な生き方のようにも思えた。
彼らが戦い以外にその力を生かそうと思えば、いったいどれだけの人の命が救われ、また、どれだけの人の命が失われたのだろう、と。
現代において、彼らが持っていた「武力」はすでに、ほとんど形として残っていない。かろうじて、「気功」などの健康法に残ってはいるが、それも怪しげなものとして扱われている。
だが、本来、彼らの技術は魔法のようなものではなかった。体を鍛え、内面を鍛える。その果てに見えるものを、彼らは自らの「武」として高めていた。
私たちが忘れてしまった、そんな世界。もしかしたら、この物語に描かれたようなことは、かつて実際にあったかもしれない。思わず、そんなふうにも思ってしまう。
躍動感たっぷりの武俠ミステリ
音さえも雪に覆われていた。四辺を囲う湖面にも白い霧が立ち込め、楼閣の窓から見下ろす景色からは、墨絵のように色が消えていた。
「……不満か」
昔から何ひとつ変わらない声が、蒼紫苑の背中を叩く。厳めしく、岩のようにかたいが、妙に安心する声だ。なのに今は、わずかに心が波立つ。
「師父がお決めになったことですから」
「つまり、不満なのだな」
重ねて問われ、唇を真一文字に結びながら振り向く。広く、やたらと物が多い部屋だった。書斎を思わせるが、寝台も置かれている。そのせいかきちんと整頓されているにもかかわらず、雑然とした印象があった。
部屋の主である男は、碧がかった灰色の瞳を細めていた。気難しげで怒っているようにも見える。けれどこもこれは、師が困っている時に見せる表情であることを、紫苑は長年の経験から知っていた。
「そもそも私は、奥義の存在すら知りませんでした」
泰隆が伸びた髭をひと撫でして、視線をわずかに逸らした。
「名だたる武俠から一人選び、師父の奥義を授ける。そう聞いた時は堪えました。拝師して十八年。非才ながら日夜研鑽してきたつもりですが、継承すること叶わず、無念です」
奥義を授かるということは、武術を全て引き継ぐということだ。それはすなわち、流派の未来を託されるということであり、弟子としてこれ以上の名誉はない。それが叶わぬだけなら、まだ紫苑も納得できた。
だが、武門も違えば顔を合わせたこともない者に譲る可能性があると言われては、面白いはずがない。同じ武人である師父にも、その気持ちが分からぬはずがない。
「私は師父の技を受け継ぐのに相応しくありませんか?」
「お前に私の武術は必要ない」
突き放すような言葉に、赤い唇が噛み締められる。
「試してみるか?」
泰隆が構えた。
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