私は数学が嫌いだった。こんなものを学んでも何の役にも立たないと思っていた。その通りだ。数学は何の役にも立たない。
因数分解だとか、微分積分だとか、そんなものは社会に出ても使ったことがない。使うといっても四則計算とグラフが精々だろう。そんなものは数学ではない。算数に過ぎない。
「だったら、なんで数学なんてしなきゃいけないのさ」
めでたく高校生になった愛する息子は私によく似ている。数学を心底嫌っているところまでそっくりだ。
学校が教えてくれる数学はたしかに役に立たない。私は社会人として生きてきた中でそのことを確信した。
しかし、だから数学を学ばなくていい、というのは違う。数学は学んでおくべきなのだ。
「なんで。役に立たないって言ってるじゃないか。役に立たないものをどうして学ぶ必要があるんだよ」
息子の反論には大いに頷けるところである。しかし、彼は私の言葉の重要なところを見落としている。
私は学校で教えられる数学は役に立たない、と言ったのだ。それこそ、学校で学ぶのは四則計算で充分だろう。
「どういうことさ」
息子が問うてくる。わけがわからないという表情だ。だから、私は息子に聞いてみることにした。数学とはなんだ、と。
「数学って、そりゃあ、公式とかを覚えて、計算して答えを出すもの、じゃないの」
しかし、私は首を横に振る。そう、それは数学ではないのだ。息子は驚いたような表情を浮かべた。
「だったら何なの、数学って」
数学は問題を見つけ出すものだ。解き明かすことは数学じゃない。私はそう答えた。息子はしかし、納得していないようだった。
「つまり、どういうことなのさ」
多くの数学者は様々な法則を発見してきた。そう、発見である。彼らはそれを解き明かしたから名を挙げたわけじゃない。
いわば、数学者は冒険家のようなものだ。世界にある不変の法則を見つけ出す。それは遺跡に眠る宝に等しい。
宝を見つけたならば、それが本当なのかを証明しなければならない。証明されて初めて、宝は一獲千金の価値を持つようになる。
しかし、それは数学者の仕事ではない。冒険家にとっては偽物であろうと発見した宝に価値を見出すように、数学者もまた、自分が発見した法則が全てだ。
証明はその後でいい。見つけ出さなければ証明なんて誰にもできやしないのだから。
「その最初こそが、数学だということ?」
私は頷いた。学校で学ぶものは数学とは言えない。問題が初めから用意されていて、その解き方を暗記するものだからだ。
それは自分で宝を見つけることにつながらない。ただ、他人の発掘した宝を鑑賞しているだけに過ぎないのだ。学校で教わる数学の授業が退屈なのも、当然だと言えるだろう。
学校教育の数学に何の価値もない。あんなものは、決して数学と呼べる代物ではないのだ。
数学嫌いが学んだ一冊
かつて、私は数学を嫌っていた。そんな私がなぜこんな考えを持つに至ったかというと、一冊の本によるものである。
その本のタイトルを『数学嫌いの人のためのすべてを可能にする数学脳のつくり方』という。苫米地英人という先生が書いたものだ。
その本が教えてくれるのは面倒な公式でもないし、数字がつらつらと並んでいる気の遠くなるようなものでもない。
そこに書かれているのは、今までの私の常識を一瞬にして覆した。その本が教えてくれるのはひとつ。数学的思考を持つ、ということである。
数学的思考。すなわち、問題を見つけ出す考え方のことだ。社会に出て役に立つ数学というのは、この考え方のことを指している。
問題を見つけ出し、その答えを解く。そして、あとはその答えになるように実践し、調整することで答えを証明する。
それはビジネスにおける根本的なことだ。そこにはわかりやすく問題が書かれているわけではないのだ。
学校教育は問題が用意されている。それを既存の方法で解けばいい。しかし、ならば問題が出てこなければ、彼らはどうすればいいのだろうか。
何もできない。学校教育の数学では、問題を探し出す方法は教えてもらえないからだ。
公式はただの文字に過ぎない。『りんご』という言葉を知ったところで、『りんご』が何かを知らなければ意味がないように、大切なのは公式の中身である。
「じゃあ、公式を覚えても意味はないんだ」
公式が社会で役に立つことはない。断言してもいい。あるとしても一部の職業だけだろう。公式を暗記しても、つまらないだけだ。
社会に答えなんて、用意されているはずがないのだから。わかりきった答えを求めるよりも、そっちの方がよほどおもしろいだろう。
「……そうかもしれない。ねえ、なんだか、ちょっとだけ数学が好きになれそうだよ」
息子の言葉に、私は嬉しくなる。今では、私は数学が好きだった。数学は退屈な暗記作業ではなく冒険だと知ったから。
学校で教えられるよりも、自分で知ろうとすればするほど数学は奥深く、おもしろいものへと変わっていくと知ったから。
数学は楽しく、役に立つ。数学が嫌いだという人たちに本当の数学の姿を知ってもらいたいとすら思うのだ。
数学脳になるために
数学は問題を解くための道具ではない。その反対に問題を見つけ出すものだ。自分で問題を見つけ、一瞬にして解く。解き方や証明は、そのあとの話だ。
一瞬で見つけた解のことを、数学の世界では「エレガントな解」という。数学の真髄とは断じて問題を証明することではない。
数学的思考で生きるとは、誰にも見えていない問題をいち早く見つけて、いち早く解く。できれば、一瞬で解いてしまうことだ。証明はあとでいい。
ビジネスも本来はそうなのだ。なにか、新しい企画をプレゼンする時、企画者の頭の中には、成功した結果がはっきり見えていなければならない。
ビジネスとはなにか?
その目的はお金を儲けることではなく、他人の問題を解決してあげることだ。解決すれば、自然にお金が入ってくるようになっているのが資本主義社会なのである。
では、なぜ、人は問題を解決できないのだろうか?
それは問題がわかっていないからだ。わかっていないから解決できないのである。
結局、数学でもビジネスでも、問題を見つけることがまず大切であり、しっかり問題を把握できれば、解はおのずと見つかるのである。
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