事件として届け出を出したが、警察は動いてくれなかった。ニュースで報道されている事件では、しばしばそのような言葉を耳にする。その度に私は、事件の犯人よりも警察に対して憤りを抱いていたものだ。
〈桶川事件〉という事件がある。女子大生が悪質なストーカーの陰湿な脅迫や嫌がらせの末に、命を落としたという悲劇。しかし、より印象に残ったのは、その事件で問い質されていた警察の対応であった。
女子大生はたびたび、警察に対して被害を訴えていたという。しかし、警察はまともに対応することがなかった。そしてとうとう、彼女は命を奪われる事態になった、というものである。
事件はもちろん、憎むべきものだ。しかし、事件について聞くだに、警察はいったい何をしているのだ、と、そう思わざるを得なかった。
警察は、事件に対してまともに動いてくれない。警察に対する深い不信感は、その時に生まれたのだと思う。だから、長い間、私は警察を嫌っていたのである。
その認識が変わったのは、古野まほろ先生の著作を読んだことがきっかけだった。その本の名は、そのままズバリ『事件でなければ動けません』というものだ。
タイトルだけみれば警察を糾弾するような本なのだろうかとも思えるが、そうではない。というのも、古野まほろ先生自身が元警察官だからである。
この本は、警察官と市民の間にある大きな溝をなくすことを目的としている。両者にとって公平に、事実にしたがって論を進めているから、警察に不信感を持っている私でも納得のいく内容だった。
その本によると、警察は平然と嘘をつくことがあるという。〈桶川事件〉で対応した警察官も、被害を訴えていた被害者に対して詭弁を弄して責任から逃れ、上司への伝達すらもまともにしなかった。もちろん、彼らの非は否定できない。
しかし一方で、警察官は多忙である。常に一つ二つ以上の事件を抱えているらしい。その上に、市民からの通報には多くのイタズラや誤報が混ざっている。となれば、仕事をこれ以上抱えるのも嫌になろうというのもわかる。
警察官とて、人間なのだ。私はそのことを忘れていた。「警察」という組織に所属していようとも、警察官は、あくまでも仕事をしている人間のひとりでしかないのだ。
彼らとて、怒りも悲しみも感じる。溜息だって吐きたくなる。疲れもするだろう。仕事をさぼりたくなることだって、あるかもしれない。
そんな彼らを、それでも私たちの安全のために仕事をしている彼らを、私たちは果たして責めることができるだろうか。無為なイタズラによって彼らの無駄な仕事を増やしている私たちが。
事件でなければ動けません。私たちが憤りを覚えるその言葉の裏にある警察官の事情を、私たちはもっと見なければいけなかったのかもしれない。
私たちの安全は、頑張っている彼らの汗の上にある。そのことを、私は忘れていた。守ってもらっている身として、彼らに対する不信ではなく、感謝を抱くべきだと、今は思う。
警察神話の真実
私は元警察官です。そして今現在は、警察と全く無縁の、何の便宜供与も受けていない一市民です。したがって、警察官としての常識もあれば、一市民としての常識もあるつもりです。しかし、その両者を比較するとき、かなりのギャップを感じることが少なくありません。
「逮捕されれば無理やり自白を強要される」「取り調べではカツ丼が出る」などといったそれらは、法令上も制度上も実務上も、有り得ないという意味での〈神話〉です。
しかしながら、現実論として、そうしたことは一定件数、一定頻度で発生します。要は、命題としては『間違っている』『有り得ない』ことも、反証というか、実例を生んでしまうことがあります。
ここで問題なのは、それら〈神話〉が是か非かあるいは真か偽かなのではなく、何故市民がそのような〈神話〉を固く信じて疑わないか、なのですから。
そして、そのような意味での〈警察不信〉のうち、永遠のチャンピオンはやはり、「警察は事件にならないと動いてくれない」という、極めて歴史的かつ確固たる〈神話〉だと考えます。
そこで本s如においては、この市民最大の〈警察不信〉について、その歴史的経緯や現状を検討しつつ、もし可能であるのなら誤解を解き、市民と警察のコミュニケーション・ギャップを埋め、両者の円滑な橋渡しをすることを試みます。それが本書の目的です。
本書がこのような目的を設定したのは、市民と警察はそもそも本質的な『同盟者』なのに、そこに確固たる〈警察不信〉があるのは健全でないばかりか、被害者とその権利を蔑ろにするという意味で、警察の責務を放棄することだと考えるからです。
ゆえに本書では、個人的経験もご紹介し検討しつつ、では市民は具体的にどうすればよいのかを、解決指向で考えてゆきます。
それでは――「事件でなければ動けません」=「何故警察は動いてくれないのか?」を検討し、警察のトリセツを考えるその前提として、まずは警察の現状・実情を見てみましょう。
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